1978年 ― 歓声と、十数ブロック先の沈黙
自国開催W杯優勝。だがモヌメンタル競技場から十数ブロックの場所に、拷問施設ESMAがあった。ビデラ軍事政権はW杯を国際宣伝装置として使い、消された人々は監禁されたままゴールの歓声を聞いていた。ペルー戦6対0の疑惑を含め、証明されたことと、されていないことを腑分けする。
2026年7月21日
1978年6月25日、モヌメンタル競技場。7万人の紙吹雪のなかで、アルゼンチンは初めて世界王者になった。同じ夜、そこから十数ブロックの建物で、頭巾をかぶされた人々がその歓声を聞いていた。これは比喩ではない。同じ都市の、同じ時刻の、実際の出来事である。この回で扱うのは、その同時性だ。
- 1976年3月24日
クーデターでイサベル・ペロン政権が倒れ、ビデラらの軍事評議会が「国家再組織プロセス」を始める。
- 1977年4月30日
消えた子を探す14人の母親が5月広場を歩き始める。「5月広場の母たち」の最初の一周。
- 1978年6月1日
モヌメンタル競技場でW杯開幕。ESMA記念館の公式資料によれば、同競技場はESMAから「十数ブロック」の距離にあった。
- 1978年6月25日
決勝でオランダを延長の末3対1。アルゼンチン初優勝。オランダは表彰式への出席を拒否した。
消される国
1976年3月24日、軍がイサベル・ペロン政権を倒した。陸軍のビデラ、海軍のマセラ、空軍のアゴスティによる軍事評議会が権力を握り、自らの事業を「国家再組織プロセス」と名付ける。再組織とは、社会そのものを作り直すという意味だった。
方法は、殺害ではなく消去だった。人はある日、街角で、職場で、自宅の玄関で連れ去られる。逮捕記録は残らない。裁判もない。遺体も返らない。家族が問い合わせても、そのような人物の記録はないと告げられる。存在しなかったことにする ― それが「デサパレシード(消された者)」である。
数はいまも確定していない。1984年、国家失踪者委員会(CONADEP)は報告書『ヌンカ・マス(二度と繰り返さない)』で8,961件の失踪を記録し、実数はこれを上回りうると明記した。人権団体は長く約3万人を掲げ、論争はいまも続く。確実なのは、数千人規模が国家の手で法の外に置かれ、340か所の秘密収容施設が特定されたことだ。
その一つが、リベルタドール通りに面した海軍機械学校 ― 通称ESMAだった。政府人権庁の公式資料によれば、ここを通過した拘禁失踪者はおよそ5,000人。多くは生きたまま海に投棄されたとされる。監禁中に生まれた子は母親から引き離された。この建物はいま記念館として公開され、2023年にユネスコ世界遺産となった。1977年4月30日には、消えた子を探す14人の母親が、我が子の布おむつを頭に巻いて5月広場を歩き始めていた。あの白い頭巾である。
宣伝装置としてのワールドカップ
1978年大会の開催が決まったのは、クーデターより10年前の1966年7月である。軍政が招致したのではない。だが軍政は、転がり込んできたそれの価値を正確に理解した。
アルゼンチン政府公共事業省の公式資料は、組織委員会EAM78を独裁政権の「主要な政治プロジェクト」と位置づけている。国家がスタジアムを建て、カラー放送網を整備した。初代責任者アクティス将軍は1976年8月に暗殺され、実権はマセラの腹心である海軍のラコステが握る。
より重要なのは宣伝の側だ。ESMA記念館が公開する生存者証言 ― 司法文書に基づく ― によれば、1977年7月、海軍司令官の管轄下に外務省報道広報局が置かれ、W杯を前にこの国の対外イメージを反転させる任務を負った。同じころESMA内部に「パリ・パイロットセンター」が、収容施設の内側には「ラ・ペセラ(金魚鉢)」と呼ばれる小さな通信社が作られる。その労働力は、囚われた失踪者たちだった。
つまり、こういうことだ。国家に消された人々が、自分たちが消されているという告発を打ち消す宣伝を、監禁されたまま作らされていた。生存者アナ・マリア・マルティは、フランスで進むW杯ボイコット運動の記事を訳せと切り抜きを渡されたと証言している。自国の人権侵害を訴える海外の声を、その被害者本人に翻訳させていたのだ。
ロサリオの6対0 ― 何が事実で、何が疑惑なのか
1978年6月21日、ロサリオ。アルゼンチンはペルーに6対0で勝ち、決勝へ進んだ。W杯史上もっとも疑われ続けている90分である。ここは慎重に腑分けしなければならない。
確認できる事実。同日、ブラジルがポーランドを3対1で下していた。アルゼンチンの試合はその後にキックオフされ、したがってアルゼンチンは、決勝進出に必要な点差 ― 得失点差でブラジルを上回るための4点差 ― を正確に知った状態でピッチに立った。この日程の組み方自体が当時から批判された。試合はケンペス2点、ルケ2点、タランティーニ、ハウセマンの6対0。ペルーの守護神ラモン・キロガはロサリオ生まれのアルゼンチン人だった。ここまでは記録である。
疑惑として語られてきたこと。試合前、ビデラがキッシンジャーを伴ってペルーの控室を訪れ、ペルーの軍政指導者モラレス・ベルムデスからの、両国の友愛を説くメッセージを読み上げたと報じられている。その後アルゼンチンからペルーへ3万5千トンの穀物が送られたこと、1978年7月6日付で無償の特別融資枠が政令で認められたことも指摘されてきた。軍政の財務担当フアン・アレマンは後年、ペルーへの贈与があったこと自体は認めたと伝えられる。2012年にはペルーの元上院議員ヘナロ・レデスマが、両国の取引の一環として13人の政治犯がペルーからアルゼンチンへ移送されたと証言した。ペルーの選手にも、あの試合は普通ではなかったと語った者がいる。
そして、証明されていないこと。以上のどれ一つとして立証されていない。あるのは証言と状況証拠であって、物証ではない。キッシンジャーは後に、ペルーの控室に入った記憶はないと述べている。キロガは買収を否定した ― 金を受け取って帰国したのなら、自分は今日リマの街を歩けないはずだ、と。テオフィロ・クビージャスは、アルゼンチンは勝つためにあらゆることをやったのだと反論した。2018年にはペルー人記者バレンティン・アオンが、買収も密約もあったとは思わないと書いている。半世紀近くさまざまな解釈が提示されてきたが、そのいずれも広い合意を得ていない。
だからこう書くしかない。八百長だったという証拠はない。八百長ではなかったという証拠もない。疑惑が48年間消えないのは、当時のアルゼンチンが、それをやりかねない国家だったからだ。人を消す政府が近隣の軍政と弾圧を共有していたという現実 ― コンドル作戦と呼ばれる協調が実在したこと ― が、疑惑に燃料を与え続ける。国家が信用を失うと、勝利までが疑われる。それは罰である。
十数ブロック
6月25日の決勝、アルゼンチンは延長の末にオランダを3対1で下した。ケンペスが38分と105分、ベルトーニが115分。ナニンハが82分に追いつき、後半終了間際にはレンセンブリンクの一撃がポストを叩いた。数センチずれていれば、この物語は違う形をしていた。オランダは試合後の表彰式への出席を拒んでいる。
歓喜は本物だった。ここを曖昧にしてはいけない。数百万の人間が街に出て、抱き合い、泣いた。軍政に命じられた感情ではない。24年前の惨劇から始まった長い自問への、ようやくの答えだった。メノッティは、このチームは政権のものではなく民衆のものだと主張し続けた男である。
だが同じ夜、軍政の側もまた確かに勝っていた。生存者ミリアム・レウィンは、優勝の日に彼らが高揚していたと証言している。それを政治的勝利とみなしていたからだ。そしてESMAの内側では、囚われた人々もまたW杯を見ていた。生存者アリシア・ミリア・デ・ピレスは語る。私たちは皆なんらかの形でW杯を聞いていた、そのうえモヌメンタルの叫びが聞こえた、ESMAからリーベルの歓声が聞こえたのだ、と。
もっとも重いのはグラシエラ・ダレオの証言かもしれない。祝勝の夜、彼女は監視役の車に乗せられ、歓喜する群衆のただなかを走った。窓から顔を出すことも許された。逃げられたのではないか。だが彼女は、自分が失踪者だと叫んでも誰も相手にしないだろうと思った、我々は生者の世界に属していなかったからだ、と語っている。そして彼女はその瞬間を、こう定義した。祝う群衆のただなかで、失踪者であること。それを孤独と呼ぶ、と。
生き延びた者の証言が残ったから、我々はこれを知っている。残らなかった人々のことは、知らないままだ。ビデラは1985年に469件の人道に対する罪で終身刑を受け、恩赦を経て2010年に再び終身刑を宣告され、2013年に獄中で死んだ。
トロフィーはいまもアルゼンチンのものだ。取り消されていないし、取り消される必要もない。ケンペスのゴールは実在した。同時に、十数ブロック先で起きていたことも実在した。この国が1978年をいまも語り続けるのは、どちらかを選べという要求を、歴史が最後まで受け付けないからである。
そして軍政は、この夏、致命的な教訓を得た。国民は旗の下でなら一つになる、と。4年後、彼らは同じ賭けをもう一度打つ。今度はサッカーではなく、南大西洋の島々で。
この記事は役に立ちましたか?
フィードバックありがとうございます!