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連載 ・ 全10話
アルゼンチン ― 国家とサッカー、熱狂の近現代史
1867年6月20日、ブエノスアイレスのパレルモで南米初のフットボールの試合が行われた。プレーしたのは全員が英国人。英国資本の鉄道が線路とともにこの球技を内陸へ運び、スコットランド人教師ワトソン・ハットンが学校で根づかせる。「非公式帝国」の下にあった国に、なぜサッカーは残ったのか。
- 01 英国人が運んできた球 ― 1867年、ブエノスアイレス 1867年6月20日、ブエノスアイレスのパレルモで南米初のフットボールの試合が行われた。プレーしたのは全員が英国人。英国資本の鉄道が線路とともにこの球技を内陸へ運び、スコットランド人教師ワトソン・ハットンが学校で根づかせる。「非公式帝国」の下にあった国に、なぜサッカーは残ったのか。
- 02 ポトレロの発明 ― 移民たちが奪い返した球 1869年に180万人だったアルゼンチンの人口は、1914年に800万人に達する。イタリア人とスペイン人が港に溢れ、その子どもたちは街の空き地ポトレロで布のボールを蹴った。英国式の規律と組織に対する、ドリブルという回答。1913年、ラシン・クラブの初優勝が意味したものを読む。
- 03 二度の決勝、二度の銀 ― ラプラタ川が分けたもの 1928年アムステルダム五輪決勝、そして1930年、第1回ワールドカップ決勝。アルゼンチンは二度とも、ラプラタ川の対岸の小国ウルグアイに敗れた。ボールが二つ使われた伝説の決勝、川をはさんだ「クラシコ・デル・リオデラプラタ」の起源、そして「勝てなかった」という記憶が国民のアイデンティティに刻んだものを追う。
- 04 国家がボールを抱いた ― ペロンとエビータの10年 1946年、フアン・ペロンが大統領になり、国家はサッカーを抱きしめた。エバ・ペロン財団の少年サッカー大会、初のパンアメリカン競技大会、クラブへの国家融資。だが1948年の選手ストライキはコロンビアへの大量流出を招き、ディ・ステファノは去り、アルゼンチンは1950年と1954年のワールドカップに姿を見せなかった。
- 05 スウェーデンの惨劇 ― ラ・ヌエストラが砕けた日 1958年、24年ぶりのW杯復帰。だがアルゼンチンはチェコスロバキアに1対6で粉砕され、帰国した代表を待っていたのは罵声と硬貨だった。優雅なドリブル文化ラ・ヌエストラが世界に通用しないと知った日から、この国は勝利のためなら美しさを捨てる道へ歩き出す。
- 06 1978年 ― 歓声と、十数ブロック先の沈黙 自国開催W杯優勝。だがモヌメンタル競技場から十数ブロックの場所に、拷問施設ESMAがあった。ビデラ軍事政権はW杯を国際宣伝装置として使い、消された人々は監禁されたままゴールの歓声を聞いていた。ペルー戦6対0の疑惑を含め、証明されたことと、されていないことを腑分けする。
- 07 マルビナスの74日 ― 軍政が最後に賭けたもの 1982年、ガルチェリ政権はマルビナス(フォークランド)諸島に軍を送った。三日前まで自らを罵倒していた広場を、歓呼で満たすために。74日後、649人の戦死者を残して軍は降伏する。同じ夏、スペインW杯でアルゼンチンは沈んだ。国が嘘に気づいた季節をたどる。
- 08 アステカの四分間 ― 神の手と、報復という物語 1986年6月22日、アステカ競技場。マラドーナは反則の手でゴールを奪い、その四分後に六十ヤードを独走して世紀のゴールを決めた。マルビナス戦争の報復だったのか。本人の言葉はいつ、どこで発せられたのか。神話と証言を腑分けし、ビジャ・フィオリートの少年が国民の代理人になった構造を読む。
- 09 1ペソ=1ドルの終わり ― 2001年、国が壊れた年 1991年の兌換法が生んだ「1ペソ=1ドル」の10年と、2001年12月の崩壊。コラリート、暴動、2週間で5人の大統領、史上最大級のデフォルト。破産した国で破産したクラブが優勝し、才能は輸出品になった。13歳のメッシが海を渡った経済的な理由をたどる。
- 10 ルサイルの夜 ― 36年ぶりの優勝と、ひとりの男の和解 2022年カタール。初戦サウジアラビアへの敗北から始まった大会は、決勝でフランスと3対3、PK戦の末に36年ぶりの世界一で終わった。マラドーナの影に比べられ続けた男が、最後に国と和解するまで。そして連載の締めくくりとして、アルゼンチンにとってサッカーとは何かを問う。【2026年7月16日追記】W杯2026、アルゼンチンは準決勝でイングランドを2対1で下し、7月20日(日本時間)の決勝でスペインと対戦する。【7月20日追記】決勝はスペインに0対1で敗れ(延長)、連覇はならなかった。