マルビナスの74日 ― 軍政が最後に賭けたもの
1982年、ガルチェリ政権はマルビナス(フォークランド)諸島に軍を送った。三日前まで自らを罵倒していた広場を、歓呼で満たすために。74日後、649人の戦死者を残して軍は降伏する。同じ夏、スペインW杯でアルゼンチンは沈んだ。国が嘘に気づいた季節をたどる。
2026年7月22日
1982年3月30日、ブエノスアイレスの五月広場は催涙ガスに沈んでいた。労働者たちが「パン、平和、労働」と叫び、騎馬警官がそれを蹴散らした。負傷者は数百、拘束された者は千人を超えた。その三日後、同じ広場が、同じ政権を歓呼で埋め尽くす。何が起きたのかを理解するには、広場ではなく、その使い方を考えた者たちの側を見なければならない。
- 1981年12月22日
レオポルド・ガルチェリが軍事政権の大統領に就任。インフレは年率三桁に達し、経済は縮んでいた。
- 1982年3月30日
労働組合CGTが呼びかけたデモが五月広場で弾圧される。四万人以上が集まり、千人以上が拘束された。
- 1982年4月2日
アルゼンチン軍がマルビナス(フォークランド)諸島に上陸。広場は一転して歓呼に包まれる。
- 1982年6月14日
74日間の戦闘の末、アルゼンチン軍が降伏。戦死者は649人にのぼった。
三日前の広場
ガルチェリが大統領の椅子に座ったのは1981年12月22日だった。選挙で選ばれたわけではない。1976年から続く軍事政権の内部で、順番が回ってきただけである。
彼が引き継いだのは残骸だった。インフレは年率で三桁に達し、工業は崩れ、実質賃金は削られ続けた。前々話で見た1978年の優勝の高揚は、とうに剥がれ落ちている。政権を支えていたのは恐怖だけであり、その恐怖にも、人々は慣れはじめていた。
慣れの証拠が、3月30日だった。「パン、平和、労働」というスローガンには、政治的な難解さがひとつもない。腹が減った、殺さないでくれ、働かせてくれ。それだけである。だからこそ危険だった。抽象的な理念ではなく、生活が広場に出てきたとき、独裁は最も弱くなる。政権は千人以上を連行することで応えた。
そして四十八時間あまり後、軍はマルビナス諸島に上陸した。イギリスが1833年から実効支配し、アルゼンチンが一貫して領有を主張してきた南大西洋の島々である。領有の主張そのものは、この国では左右を問わず共有された正当な悲願だった。だからこそ、それは使い勝手のいい札でもあった。
四月二日、五月広場はふたたび埋まった。今度は歓呼で。三日前に同じ石畳で殴られた人々の一部も、そこにいた。軍政は、自分を憎む国民の熱を、そっくり自分への支持に付け替えることに成功しかけていた。
「我々は勝っている」という見出し
戦場に送られたのは、主に徴集兵だった。多くは十代の終わりから二十歳そこそこ、兵役で集められた若者である。訓練は足りず、装備も足りず、南大西洋の冬をしのぐ手立ても足りなかった。彼らが対峙したのは、職業軍人で構成された英軍だった。下院に提出されたガマルニクらの研究報告は、飢えと寒さと即興に加えて、多くの指揮官が本土の収容所でやっていた仕打ちを、そのまま自軍の兵士に対して再現したと記している。
一方、本土に届いていたのは別の戦争だった。上陸翌日、主要各紙は島に翻るアルゼンチン国旗と兵士の写真を掲げた。のちに研究者たちは、その写真が諸島ではなく、ブエノスアイレスの海軍機械学校(ESMA)で撮られたものだと突き止める。クラリン紙自身が、十年後に「やらせ写真」であったと認めた。前話で触れた、失踪者たちが消えていったあの建物である。同じ場所が、今度は勝利の演出に使われた。
5月2日、巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノが英原潜に撃沈され、323人が死んだ。この一件だけで、戦死者総数649人の約半数に達する。だが数日後、雑誌『ヘンテ』の表紙は「我々は勝っている」と告げていた。5月末には、英輸送船カンベラを撃沈したという見出しが躍る。同じ雑誌の別の表紙では、暗室で加工され、実際には写っていなかった航空機と黒煙が書き加えられていたことを、後年、当時の技師が認めている。
前出の報告書は、この情報操作の宛先をはっきりと指摘している。それは英国軍を欺くためのものではなかった。アルゼンチン国民自身を欺くためのものだった。
幌をかけたトラック
降伏の時点で、島には一万一千人を超えるアルゼンチン兵が残されていた。自国の艦船では運びきれず、彼らを本土へ帰したのは英国側が用意した船である。6月19日、プエルト・マドリンに四千百三十六人を降ろしたのは、SSカンベラだった。ひと月前に「撃沈した」と報じられた、あの船である。
港で待っていたのは歓迎ではなかった。兵士たちは幌をかけた閉じたトラックに乗せられ、兵舎へ運ばれた。多くは数日から数週間、家族と連絡を取ることも許されずに軍施設に留め置かれ、食べさせられ、手当てを受けた。報告書はその目的を身も蓋もなく書いている。どんな身体と精神の状態で戻ってきたのかを隠し、見た目を整える時間を稼ぐためだった。
船の上で、彼らは上官から訓示を受けている。負けたのだから、国民はお前たちに石を投げるだろう、と。実際にはその反対だった。港町の人々は近づき、抱きしめ、食べ物と毛布を差し出そうとした。それは用意された演出ではなく、歩道に立っていた者たちから自然に起きたことだったと、現場にいた地元紙の写真家が証言している。兵士たちは、怯えて船を降りてきたのだという。
除隊にあたって配られた小冊子は、何を語り、何を語らないかを指示していた。署名者は、国家テロの仕組みを組み立てた人物の一人とされる陸軍情報部隊の大佐である。若者たちは受け取り調書に虐待や死の申告を書かされ、そのうえで、二度とこの話をしないという約束を負わされた。同年12月、陸軍トップの名で出された「秘」扱いの文書は、それらの行為を単なる規律違反として処理するよう定めている。
敗戦がひらいた扉
その敗北の途中で、ワールドカップが始まっている。
6月13日、バルセロナのカンプ・ノウ。スペイン大会の開幕戦で、王者アルゼンチンはベルギーに0対1で敗れた。翌14日、マルビナスのアルゼンチン軍が降伏する。二十一歳のディエゴ・マラドーナにとって最初のW杯は、国家が崩れていく音を背景に進んだ。
グループリーグはハンガリーに4対1、エルサルバドルに2対0で勝って通過したが、二次リーグは残酷だった。6月29日にイタリアに1対2。7月2日にブラジルに1対3。試合終了間際の85分、マラドーナは相手選手を蹴って退場になる。ピッチを去る背中に、王者の面影はなかった。軍事的な敗北とスポーツ上の失敗が、ひとつづきの屈辱として国民の記憶に沈んでいった。
本国では、扉が開きはじめていた。戦時中は英兵を臆病者と書いていた雑誌が、敗戦の途端に、相手は装備も練度も上の本物のプロだったと書きはじめる。「祖国の英雄」だったはずの若者は、いつのまにか「戦争の子どもたち」と呼ばれ、寒さに耐えられず、食べ物がなく痩せ細った、素人の集団として描かれた。数時間前まで報道を信じていた人々が、自分は騙されたのだと気づく。ガルチェリは敗戦の直後に大統領の座を追われ、軍政の統治能力そのものが問われた。恐怖で黙らせてきた社会が、口を開いた。1983年10月、総選挙が行われ、ラウル・アルフォンシンが勝利する。12月10日、国際人権デーに合わせて彼は大統領に就任した。七年半の軍政は終わった。
だが、終わったのは政権であって、記憶ではない。649人の死者は、勝利のための道具として送られ、嘘のなかで死んだ。生きて帰った者たちは、語るなと命じられて帰ってきた。それを誰が引き受けるのか、この国はまだ答えを持っていなかった。裁きは始まったが、遅く、不完全だった。行き場のない感情が、社会の底に沈んだまま残った。
四年後、メキシコの高地の午後に、その沈殿物が思いがけない形で浮上する。それは戦争とは何の関係もない、ただのサッカーの試合だったはずだった。
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