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国家がボールを抱いた ― ペロンとエビータの10年

1946年、フアン・ペロンが大統領になり、国家はサッカーを抱きしめた。エバ・ペロン財団の少年サッカー大会、初のパンアメリカン競技大会、クラブへの国家融資。だが1948年の選手ストライキはコロンビアへの大量流出を招き、ディ・ステファノは去り、アルゼンチンは1950年と1954年のワールドカップに姿を見せなかった。

2026年7月19日

1948年、ブエノスアイレス。少年サッカーの大会に出るために、1万5千人余りの子どもが登録した。ただしピッチに立つ前に、全員が受けねばならないものがあった。健康診断である。多くの子にとって、それが生まれて初めて医師に体を診てもらう経験だった。国家がボールを抱きしめると、こういうことが起きる。そして、それだけでは終わらない。

  1. 1946年6月4日

    フアン・ドミンゴ・ペロンが大統領に就任。労働者を基盤とするポピュリズム政権が始まる。

  2. 1947年12月28日

    南米選手権でウルグアイを4対2で下し、アルゼンチンが史上初の三連覇。指揮官は1930年決勝を戦ったスタービレ。

  3. 1948年

    エバ・ペロン財団が少年サッカー大会を開始。同じ年、選手たちがストライキに入る。

  4. 1949年

    ディ・ステファノらがコロンビアの「エル・ドラード」へ流出。翌1950年、アルゼンチンはW杯予選を棄権する。

労働者に日曜日を

1946年6月4日、フアン・ドミンゴ・ペロンが大統領に就任した。前年10月17日、投獄された彼の釈放を求めて労働者がマヨ広場を埋めた日から、まだ八か月しか経っていない。軍人から労働省の長官へ、そして大統領へ。彼の権力の源は、それまで政治から締め出されていた「シャツを着ない者たち(デスカミサードス)」だった。

ペロン政権が労働者に与えたものは、賃上げだけではない。1940年代なかばに、有給休暇や年末賞与(アギナルド)といった制度が整えられていく。これは金の話に見えて、実は時間の話である。労働者にとって、日曜日の午後が初めて「自分のもの」になった。そしてその午後を、彼らはスタジアムで過ごした。

政権はそこに手を伸ばす。クラブがスタジアムを建てるための国家融資が動き出した。象徴はラシン・クラブである。アベジャネーダに建った巨大なコンクリートの円筒は1950年9月に開場し、その名を「エスタディオ・プレシデンテ・ペロン」といった。推進役はペロン政権の財務大臣にして熱烈なラシン支持者、ラモン・セレイホ。ラシンは1949年から51年まで三連覇し、他クラブのファンからは「デポルティーボ・セレイホ」と揶揄された。この呼び名がどこまで実態を表していたかは議論があるが、そう呼ばれたこと自体が、当時の国家とクラブの距離を物語る。

検診を受けてから、蹴りなさい

1948年、エバ・ペロン財団が少年サッカーの大会を始める。エバ・ペロンと保健大臣ラモン・カリージョの発案だった。第1回の登録者は1万5205人。首都と近郊の11歳から14歳の子どもたちである。翌年には10万人規模に膨れ上がった。

この大会の核心は、優勝トロフィーではない。参加の条件として全員に義務づけられた、事前の健康診断である。財団の医師が、貧しい地区の子どもの歯を見て、目を見て、栄養状態を測った。多くの子にとって、それが人生で初めて受ける医療だった。サッカー大会が、実質的な公衆衛生調査として機能したのである。ユニフォームとスパイクが配られ、勝ち進んだ子は首都へ招かれ、エビータとペロンに会った。

同時に、それは徹底して政治的な装置でもあった。研究者エドゥアルド・ガラクは、政権が制作した記録映画を分析し、選手や子どもの身体が愛国的な音楽とナレーションに重ねられ、スポーツの成功がそのまま政権の成果として提示される構造を指摘している。1951年2月、ブエノスアイレスで史上初のパンアメリカン競技大会が開かれた。開会を宣言したのはペロン大統領、会場はラシンの「エスタディオ・プレシデンテ・ペロン」。19か国が参加し、アルゼンチンはメダル数で首位に立つ。この大会で同国が1位になったのは、後にも先にもこのときだけである。

「スポーツをする国民」。それは誇張ではなく、統治の設計図だった。健康な身体、規律ある集団、勝利する国家 ― この三つが一本の線で結ばれ、その線の起点に、少年サッカー場があった。

黄金期の底が抜ける

一方、大人のサッカーも絶頂にあった。1940年代前半のリーバー・プレートには、ペデルネラを軸にした伝説的攻撃陣「ラ・マキナ(機械)」がいた。ペデルネラは前線から引いた位置で組み立てる、後年いう偽9番の先駆けとされる。代表は1945年、46年、47年と南米選手権を三連覇する。史上唯一の記録である。1947年12月28日、エクアドルでウルグアイを4対2で下して王座を決めた。17年前にモンテビデオで同じ点差に泣いた側が、今度は与える側に回った。指揮官は、1930年決勝で得点したギジェルモ・スタービレその人である。アルゼンチンは、ようやく大陸の頂点に立った。

そして、そこから落ちた。

1944年、選手たちは組合「フトボリスタス・アルヘンティノス・アグレミアードス」を結成していた。初代会長はフェルナンド・ベジョ、副会長はペデルネラである。1948年、彼らは最低賃金の設定、未払い給与の解消、組合の公式承認を求めてストライキに入った。リーグは中断される。争議は八か月に及び、1949年にようやく最低賃金の承認を勝ち取った。だが、そのときにはもう遅かった。

労働者の政府を名乗った政権が、国内で最も人気のある職場の労働争議を収拾できなかった。あるいはしなかった。この皮肉をどう説明するかは、アルゼンチンでも今なお議論が続く。確かなのは結果のほうだ。選手たちは国内に見切りをつけた。

行き先はコロンビアだった。同国のプロリーグ運営組織ディマヨールは1948年に協会から離脱し、FIFAの外にいた。FIFAの外にいるとは、移籍金を払う義務がないということである。ボゴタのミジョナリオスは、この抜け穴を突いた。1949年6月8日、リーバーの至宝ペデルネラの獲得が発表される。空港には5千人のファンが詰めかけた。続いてアルフレド・ディ・ステファノ、ネストル・ロッシ、フリオ・コッシが渡る。最終的に57人ものアルゼンチン選手がコロンビアへ向かったとされる。1949年から54年にかけての、この狂騒の時代を人は「エル・ドラード(黄金郷)」と呼んだ。

鎖国という選択

代表から中身が抜けた。そして、扉が閉じる。

1949年、アルゼンチンは南米選手権の王者でありながら、ブラジルで開かれる大会にチームを送らなかった。ブラジル側はこれを侮辱と受け取ったと伝えられる。翌1950年のワールドカップ予選で、アルゼンチンはボリビア、チリと同じ組に入りながら、抽選後に棄権する。理由として公に語られたのは、ブラジルサッカー連盟との対立だった。ボリビアとチリは、一試合も戦わずに本大会へ進んだ。1954年のスイス大会には、そもそもエントリーすらしていない。

なぜか。決定的な文書が示されているわけではなく、説明は複数ある。協会間の政治的な対立という表向きの経緯。主力を失った代表を世界に晒したくなかったという事情。ペロン政権が、負ける可能性のある舞台を避けたという見方。どれも証言と状況からの推論であって、断定はできない。ただ、事実の並びだけは動かない。1947年に大陸を制した国が、以後8年間、世界選手権の芝を一度も踏まなかった。ウルグアイが1950年にマラカナンでブラジルを沈め、1954年に4強に入るあいだ、ラプラタ川のもう一方の岸は無人だった。

FIFAとディマヨールは「リマ協定」を結び、外国人選手は1954年までに母国へ戻ることになった。だがディ・ステファノは帰らなかった。1953年、彼はスペインへ渡る。レアル・マドリードで欧州を五度制し、20世紀を代表する選手になる。アルゼンチンが生み、アルゼンチンが失った男だった。

1952年7月26日、エバ・ペロンが33歳で死ぬ。1955年9月、軍のクーデターでペロンは追われ、亡命した。エビータの少年大会は中止され、18年間、再開されなかった。ラシンの「エスタディオ・プレシデンテ・ペロン」からは、その名が消える。1956年3月5日には、ペロンとエバの名を口にすること自体を禁じる政令が出された。違反者には最長6年の懲役が科された。

国家がサッカーを抱きしめると、何が起きるのか。ペロンの10年は、その最初の、そして両義的な答えである。10万人の子どもが人生で初めて医師に診てもらった。同時に、この国は最高の選手たちと二つのワールドカップを失った。国家の腕は、抱きしめると同時に、締めつける。そして政権が倒れれば、抱かれていたものは丸ごと引き剥がされる。

この問いに、はるかに暗い答えが返ってくるのは、四半世紀のちのことだ。1978年、別の政権が同じ抱擁を、比較にならない目的のために使う。だがその前に、アルゼンチンは別の勘定を払わされる。鎖国していた8年のあいだに、世界のサッカーは変わっていた。そして扉が開いたとき、この国はそれを知らなかった。

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