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英国人が運んできた球 ― 1867年、ブエノスアイレス

1867年6月20日、ブエノスアイレスのパレルモで南米初のフットボールの試合が行われた。プレーしたのは全員が英国人。英国資本の鉄道が線路とともにこの球技を内陸へ運び、スコットランド人教師ワトソン・ハットンが学校で根づかせる。「非公式帝国」の下にあった国に、なぜサッカーは残ったのか。

2026年7月16日

1867年6月20日、ブエノスアイレス北部パレルモの草地に、8人ずつに分かれた男たちが立っていた。全員が英国人だった。観客はほとんどいない。彼らは南米で初めて記録に残るフットボールの試合をしようとしていた。だが、この球技がやがてこの国の魂そのものになると、その場の誰も想像していなかったはずだ。

  1. 1867年5月9日

    トマスとジェームズのホッグ兄弟らがブエノスアイレス・フットボール・クラブを設立。南米初のフットボールクラブとされる。

  2. 1867年6月20日

    パレルモのブエノスアイレス・クリケット・クラブのグラウンドで最初の試合。白帽組が赤帽組を4対0で下す。

  3. 1884年

    スコットランド人教師ワトソン・ハットンが、ブエノスアイレス・イングリッシュ・ハイスクールを創設。

  4. 1893年2月21日

    ワトソン・ハットンらがアルゼンチン協会フットボール・リーグ(現AFA)を設立。南米最古の協会となる。

パレルモの午後

その年の5月9日、トマス・ホッグとジェームズ・ホッグの兄弟が中心となり、ブエノスアイレス・フットボール・クラブが結成された。会員はブエノスアイレスに住む英国人。競技場を持たない彼らは、同じ英国人が運営するブエノスアイレス・クリケット・クラブに頼み込み、パレルモのクリケット場を借りた。いまガリレオ・ガリレイ天文館が建っている、あの一帯である。

最初の試合は5月25日に予定されていた。アルゼンチンが独立への一歩を踏み出した五月革命の記念日だ。だが天候が崩れて流れ、6月20日に持ち越された。当日、8人ずつに分かれたのは、単に人数が足りなかったからだという。白い帽子の組と赤い帽子の組。試合は120分続き、白帽組が4対0で勝った。ルールは本国から輸入されたばかりのもので、手を使う場面も残っていたと伝えられる。サッカーとラグビーがまだ完全には分岐しきっていない時代の、混じり合った競技だった。

重要なのは、そこにアルゼンチン人が一人もいなかったことだ。この日プレーしたのは、貿易商やその子弟、つまりブエノスアイレスの英国人居留民である。彼らにとってフットボールは、故郷の日曜日を南半球で再現するための道具にすぎなかった。地元の人々にとっては、外国人が草地で奇妙な運動をしているだけの光景だっただろう。輸入された遊びは、輸入された共同体の内側に閉じていた。

線路が運んだもの

では、なぜその閉じた遊びが国じゅうに広がったのか。答えは鉄のレールにある。

19世紀後半のアルゼンチンは、英国の資本によって作り替えられていた。1860年時点で国内の鉄道はわずか39キロ。それが1910年には2万4000キロ近くに達する。半世紀で600倍を超える膨張である。この途方もない路線網を敷き、所有し、運営していたのは、大半が英国の会社だった。線路はパンパの奥まで伸び、小麦と牛肉を港へ運び、港からロンドンへ運んだ。アルゼンチンは英国に食糧を売り、英国から資本と工業製品を買った。

歴史学ではこれを「非公式帝国(informal empire)」と呼ぶ。植民地として直接統治するわけではない。総督も派遣しない。だが金融と輸送と貿易を握ることで、実質的に一国の経済を従属させる。1880年から1914年にかけてのアルゼンチンは、まさにその教科書的な事例だった。政治的には独立した共和国であり、経済的には債権国の下部構造だった。

そして、その鉄道会社の駅ごとに、英国人の技師と職員が住みついた。彼らは自分たちのために、そして労務管理の一環として部下のために、クラブを作った。1889年にロサリオで生まれたロサリオ・セントラルは、もとの名を中央アルゼンチン鉄道クラブという。1895年創立のフェロカリル・オエステは、その名がそのまま「西部鉄道」である。ラ・ナシオン紙は、鉄道と結びついて誕生したアルゼンチンのサッカークラブが100以上にのぼると報じている。1893年に協会リーグを設立した創設クラブのなかにも、鉄道会社のチームが名を連ねていた。

スコットランド人の教師

もっとも、鉄道だけなら、サッカーは駅前の英国人クラブの娯楽で終わったかもしれない。そこに学校が加わった。

アレクサンダー・ワトソン・ハットン。1853年、グラスゴーのゴーバルズ地区に生まれ、エディンバラ大学で学び、1882年にアルゼンチンへ渡った。招かれたのはセント・アンドリューズ・スコッツ・スクール。彼はトランクにサッカーボールと空気入れを詰めて税関を通ったと伝えられている。ハットンにとって、スポーツは余興ではなかった。心身の鍛錬を教育の中核に据えるという、当時の英国的な教育思想を、彼は本気で信じていた。

やがて彼はこの学校を離れ、1884年に自ら「ブエノスアイレス・イングリッシュ・ハイスクール」を開く。そこで彼が徹底したのが、体育とフットボールだった。1891年、この地に世界で最初の英国外リーグが生まれ、いったん頓挫する。ハットンは諦めなかった。1893年2月21日、キルメス、セント・アンドリューズ、カレドニアンズ、ロマス、フローレス、そして自らの学校の代表を集め、アルゼンチン協会フットボール・リーグを設立する。彼は初代会長に就いた。この組織が、いまのAFA(アルゼンチンサッカー協会)である。アメリカ大陸最古のサッカー協会だ。

彼の学校の卒業生たちは、アルムニ(Alumni、卒業生の意)というクラブを結成する。アルムニは1911年に解散するまでに22のタイトルを積み上げ、アルゼンチン初期サッカーの絶対王者となった。AFAはいまも彼を「アルゼンチンサッカーの父」と呼ぶ。マラドーナとメッシに至る系譜の起点に立っているのは、パンパの牧童ではなく、グラスゴー生まれの生真面目な教育者だった。

奪われたゲーム、奪い返すゲーム

ここに、この連載を貫く問いがある。

英国が非公式帝国として持ち込んだものは、鉄道だけではない。銀行も、冷凍船も、クリケットも、ポロも、ラグビーも入ってきた。だが、そのほとんどはアルゼンチンの国民的情熱にはならなかった。クリケットは英国人の同窓会の域を出ず、ポロは富裕層の競技として残った。なぜサッカーだけが、支配者の遊びから被支配者の宗教へと変質したのか。

ひとつの手がかりは、サッカーが安かったことだ。芝も要らず、道具も要らず、11人も要らない。布を丸めて縛れば球になる。もうひとつの手がかりは、この国が同じ時期に、まったく別の巨大な力を受け入れつつあったことだ。ヨーロッパからの移民である。1869年に180万人足らずだったアルゼンチンの人口は、1914年には800万人近くに膨れ上がる。その大半は、英国人ではなかった。イタリア人であり、スペイン人だった。

英国人が線路の上に置いていったボールを、彼らが拾う。そして拾った瞬間から、このゲームは英国人のものではなくなっていく。1867年のパレルモの草地から、話はまだ始まったばかりだ。次回は、街の空き地で球を蹴りはじめた移民の子どもたちが、いかにして「我々のもの」を発明したのかを見ていく。

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