ポトレロの発明 ― 移民たちが奪い返した球
1869年に180万人だったアルゼンチンの人口は、1914年に800万人に達する。イタリア人とスペイン人が港に溢れ、その子どもたちは街の空き地ポトレロで布のボールを蹴った。英国式の規律と組織に対する、ドリブルという回答。1913年、ラシン・クラブの初優勝が意味したものを読む。
2026年7月17日
1913年12月28日、アベジャネーダのグラウンドで一つの試合が終わった。ラシン・クラブがサン・イシドロを2対0で下し、リーグの王座に就いた。スコア自体は平凡だ。だがこの日、アルゼンチンのサッカーは持ち主を変えた。優勝メンバーの名簿に、英国風の名前が一つもなかったからである。
- 1869年
第1回国勢調査。アルゼンチンの人口は約180万人。ブエノスアイレス市は約18万人にすぎない。
- 1870〜1914年
ヨーロッパから約590万人が渡来し、うち約320万人が定住。イタリア人とスペイン人が圧倒的多数を占める。
- 1913年12月28日
ラシン・クラブがサン・イシドロを2対0で破り初優勝。クリオージョのクラブとして初の王者となる。
- 1914年
国勢調査で人口は約800万人。外国生まれが全国で約3割、ブエノスアイレス市では約半数に達する。
港に降りた数百万
19世紀半ばのアルゼンチンは、広さだけがあった。パンパは地平線まで続き、人がいなかった。思想家フアン・バウティスタ・アルベルディが1852年に書いた「統治するとは人口を増やすことである」という一句は、そのまま国是になった。翌年の憲法は、大地を耕し産業を興すためにヨーロッパからの移民を招くと明記する。国家は、人間を輸入する政策を選んだのだ。
そして人間はやってきた。1870年から1914年までの45年間で、ヨーロッパから約590万人がこの国に上陸し、うち約320万人がそのまま住みついた。1869年に約180万人だった人口は、1914年には約800万人へ膨れ上がる。半世紀足らずで4倍以上。近代史のなかでも異様な速度である。
彼らはどこから来たのか。圧倒的にイタリアとスペインだった。フランス、ポーランド、シリア、レバノン、ロシア帝国のユダヤ人も加わったが、二つの半島の民が数の上で他を圧した。1869年に18万人の地方都市だったブエノスアイレスは、1914年には160万人に迫る南米最大級の都市へ変貌し、市民のおよそ半数が外国生まれという状態になる。1895年の時点で、この街ではすでに外国人が地元生まれを上回っていた。
彼らが住んだのが、コンベンティージョと呼ばれる長屋である。裕福な家が郊外へ逃げたあとの邸宅を仕切り直し、あるいは急ごしらえで建てた集合住宅に、一家族一部屋で押し込まれる。中庭を数十家族が共有し、台所も便所も共同。ラ・ボカ地区では、港に余ったペンキで波板を塗った建物にジェノヴァ出身者が群れ集った。タンゴが生まれたのも、この中庭である。そしてサッカーもまた、ここから生まれ直すことになる。
ポトレロという教室
英国人はサッカーを学校で教えた。整地された芝、笛を持った教師、規律、隊形、組織的な長いパス。ワトソン・ハットンが移植したのは、そういう体系だった。
だが移民の子どもたちに芝はなかった。彼らが持っていたのは、ポトレロ(potrero)と呼ばれる街の空き地である。都市が爆発的に膨張する過程で、建物と建物のあいだに取り残された、不整形で狭い土地。そこに大勢の子どもが押し寄せる。ボールは買えないから、ぼろ布を丸め、古い靴下をかぶせて縛った。ペロータ・デ・トラポ、布のボールだ。
狭い土地に人が多すぎる場所で、ボールを保持する方法は一つしかない。抜くことだ。パスコースなどそもそも存在しない。だから足元で細かく触り、体をひねり、相手をかわす。教師はいない。だから型もない。あるのは即興と、ずる賢さと、狭い場所で球を失わない技術だけだった。
この物語を全国に配ったのが、スポーツ誌『エル・グラフィコ』であり、なかでもボロコトーの筆名で書いた記者だった。1928年、彼は「クリオージョのドリブル」の理論を誌上に展開する。イングランドのサッカーには即興と想像力の余地がない。対して、教師を持たないポトレロの少年こそがドリブルの発明者である――そう論じたうえで彼は、どこかの広場にその少年の像を建てるべきだと書いた。裸足で、いたずらっぽく賢い目をして、布のボールをかわしている姿でなければならない、と。
ただし、ここは慎重に扱う必要がある。アルゼンチンの人類学者エドゥアルド・アルチェッティが指摘したように、これは事実の記録というより、雑誌が丹念に作り上げた「想像界」だった。英国的なるものを機械や工場に、クリオージョ的なるものを芸術に重ね、後者の優位を自然の摂理のように語る神話である。だが神話が事実でないことと、神話が力を持たないことは別だ。アルゼンチン人はこの物語を信じた。信じたことによって、本当にそう振る舞うようになった。
1913年12月28日、アベジャネーダ
そして数字が神話に追いついた。
ラシン・クラブは1903年3月25日、ブエノスアイレス南隣の工業地帯アベジャネーダで産声を上げた。1905年にAFAへ加盟し、1910年に一部リーグへ昇格する。それまで王座を独占していたのは、アルムニ、ロマス、キルメスといった英国系のクラブだった。とりわけワトソン・ハットンの学校から生まれたアルムニは22のタイトルを積み、1911年に解散する。英国時代の最高傑作が舞台を降りたのだ。
その2年後、1913年。ラシンは20試合で17勝1分2敗という圧倒的な成績でセクションを制し、12月28日、自らのグラウンドでサン・イシドロとの決定戦に臨んで2対0で勝った。得点王アルベルト・オアコを擁するこのチームこそ、クリオージョのクラブとして初めてアルゼンチンの頂点に立った存在である。
優勝メンバーの名を並べてみるといい。ムットーニ、レジェス、オチョア、ベトゥラール、オラサール、オアコ、ビアッシ、マルコベッキオ、オスピタル、ペリネッティ。イタリア系とバスク系とスペイン系。英国風の姓は、一つも見当たらない。ラシンはここから1919年まで7連覇を達成する。世界に例のない記録であり、うち5度は無敗だった。人々は彼らを「ラ・アカデミア」――学院と呼んだ。教わる側だった者たちが、教える側になったのだ。
「ラ・ヌエストラ」
やがてこの様式には名前がつく。ラ・ヌエストラ(la nuestra)。訳せば「我々のもの」。
奇妙な名前だ。この国に「我々」などというものが、そもそも存在したのか。国民の半数近くが外国生まれで、街では三つも四つも言語が飛び交い、コンベンティージョの中庭ではナポリ方言とガリシア語が交錯していた。イタリア人はイタリア人として、スペイン人はスペイン人として生きることもできた。国家は人間を輸入したが、国民を作る方法までは持っていなかった。
その空白に、ボールが落ちてきた。ポトレロで一緒に球を蹴った少年たちは、父の故郷を共有していない。共有していたのは、狭い空き地と、布のボールと、抜かれた悔しさと抜いた快感だけだ。ラ・ヌエストラの「我々」とは、血でも土地でもなく、そのプレーの様式によって事後的に定義された「我々」だった。だからこそ、アルゼンチンにおいてサッカー観は国民観そのものになる。プレーの仕方を否定することは、その人間が何者であるかを否定することに等しくなっていく。
この呪縛は重い。半世紀後、ラ・ヌエストラは国際舞台で無残に打ち砕かれ、この国は自らのアイデンティティを疑うことになる。だが1913年の時点では、まだ誰もそれを知らない。彼らはただ、自分たちの球を、自分たちのやり方で蹴りはじめたところだった。そして最初にその自信を試したのは、はるか遠いヨーロッパではなく、ラプラタ川の向こう岸に立つ小さな隣国だった。
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