JAL破綻 — 翼を失った日
2010年1月、ナショナルフラッグ日本航空が会社更生法を申請する。事業会社として戦後最大とされた経営破綻。企業再生支援機構と稲盛和夫、そしてアメーバ経営。上場廃止から再上場まで、翼を失った会社がいかに再び飛び立ったのかを中立にたどる。
2026年6月13日
2010年1月19日。日本の空を半世紀以上にわたって象徴してきた会社が、東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請した。日本航空――かつてのナショナルフラッグである。
ナショナルフラッグとは、その国を代表する航空会社のことである。第2話で見たように、JALは戦後の日本が空の主権を取り戻した象徴として生まれ、ジャンボジェットを連ね、日の丸を背負って世界の空を飛んできた。その会社が経営に行きづまり、法的整理の道を選んだ。負債総額は関連2社とあわせて約2兆3千億円にのぼり、事業会社としては戦後最大の倒産になったと報じられた。多くの人が、自らの記憶と重ねながら、このニュースを受けとめたことだろう。
なぜ、翼は重くなったのか
巨大な会社が傾いた理由を、一つに断じることはできない。複数の要因が長い時間をかけて積み重なった結果だとされている。
しばしば指摘されるのは、高い費用の構造である。人件費や年金の負担が重く、需要が細った路線でも簡単には撤退できない事情が、収益を圧迫したといわれる。半官半民として歩んできた歴史のなかで、採算より政策的な役割が優先された面があったとも語られるが、その評価はさまざまである。
そこへ、外からの衝撃が重なった。原油価格の高騰による燃料費の上昇、2008年の世界的な金融危機による需要の冷え込み、さらには感染症の流行による旅客の落ち込み。国際線の比率が高かったJALは、こうした世界経済の波に大きく揺さぶられたとされる。内に抱えた構造の重さと、外からの相次ぐ逆風。その二つが重なったとき、巨大な翼は耐えきれなくなったのだと、多くの報道は伝えている。
国の関与と、ひとりの経営者
再建を主導したのは、企業再生支援機構という、官民が出資して設けられた組織だった。同機構が支援を決め、公的な枠組みのもとで巨額の資金と人材が投じられていく。
この国の関与をめぐっては、当時から議論があった。一企業の救済に公的な支援が使われることへの異論や、同じ空を飛ぶライバルとの公平性を問う声もあったとされる。後に触れるように、競合するANAの側からは、競争条件の不均衡を懸念する立場が示されたとも報じられた。救済の是非は、立場によって見方が分かれる問題である。
そしてもう一人、再建の象徴となった人物がう。京セラの創業者で、第二電電(現在のKDDIにつながる事業)も手がけた稲盛和夫である。すでに高齢だった稲盛は、無報酬で日本航空の会長を引き受けたと伝えられている。航空業界の出身ではない経営者が、なぜ国を代表する航空会社の再建を託されたのか。その手腕に、多くの注目が集まった。
アメーバ経営という処方箋
稲盛が持ち込んだのが、彼が京セラで築いた「アメーバ経営」と呼ばれる手法だった。
アメーバ経営とは、会社を小さな単位(アメーバ)に分け、その一つひとつが自分たちの採算を自分で把握し、責任をもって運営していく仕組みである。それまでのJALでは、自分の部署の数字が会社全体の損益にどうつながるのか、現場が実感しにくかったと指摘されてきた。稲盛は、社員一人ひとりが採算を意識し、自ら考えて動く文化を根づかせようとしたとされる。
あわせて、稲盛は「フィロソフィ」と呼ばれる経営の考え方を全社で共有させたといわれる。何のために働くのか、どうあるべきか――。こうした理念の浸透と、不採算路線からの撤退や人員の削減といった痛みをともなう改革が同時に進められた。その結果、再建期のJALは収益力を回復させ、過去最高水準とされる利益を計上するまでになったと報じられている。
- 2010
1月19日、日本航空が会社更生法を申請。事業会社として戦後最大の倒産とされる。
- 2010
2月、日本航空の株式が上場廃止に。既存の株主は大きな損失を負ったとされる。
- 2010
稲盛和夫が会長に就任し、アメーバ経営とフィロソフィを導入したと伝えられる。
- 2011
3月、会社更生手続きが終了。再建は一つの区切りを迎えた。
- 2012
9月19日、日本航空が東京証券取引所に再上場を果たす。
ただし、こうした再建の評価にも、慎重な目が必要である。短期間での利益回復は、公的支援による負債の圧縮や、税の優遇、空港の発着枠といった条件にも支えられた面があると指摘されている。経営者の手腕だけでなく、制度的な後押しがどれだけ効いたのか――。再建の物語を、ひとりの英雄の功績にすべて還元してしまうことには、注意が要るといえるだろう。
上場廃止から、再上場へ
破綻の過程で、JALの株式はいったん市場から退場した。2010年2月に上場が廃止され、それまで株を保有していた人々の多くは、その価値の大半を失ったとされる。これは再建の影の側面であり、破綻が誰にどんな痛みをもたらしたのかを物語っている。
それでも会社は飛び続け、立て直しは進んだ。そして2010年の破綻からわずか2年半あまり、2012年9月19日、日本航空は東京証券取引所に再び上場する。市場へ戻ったその初値は、売り出しの価格をわずかに上回ったと報じられた。翼を失った会社が、ふたたび自らの力で飛び立つ姿を、市場が受け入れたかたちである。
こうして日本航空は、戦後最大とされた破綻から、わずかな期間で市場へ復帰した。ナショナルフラッグは、痛みと引きかえに、もう一度空へ戻ってきたのだ。
けれども、この物語にはもう一つの視点がある。JALが破綻と再建に追われていたまさにその間、同じ日本の空を飛ぶもう一方の翼は、どうしていたのだろうか。長く後発の挑戦者であり続けた会社が、好機をとらえて大きく羽ばたこうとしていた。その間に、もう一方の翼は大きく羽ばたいていたのだ。
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