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自由化の風 ― 規制緩和と競争

1985年、運輸省は45/47体制の見直しを決め、翌年の答申で各社のすみ分けは事実上放棄された。ダブル・トリプルトラッキングで一つの路線に複数社が乗り入れ、JALは完全民営化へ。護送船団から競争へと舵を切った1980年代後半の日本の空を、史実ベースで描く。

2026年6月13日

前話の深い悲しみと反省の先で、日本の空は、構造そのものを変える局面を迎えていた。

1970年代初めに固まった45/47体制は、国が日本航空と全日空、東亜国内航空の役割を定め、それぞれのすみ分けを保つ仕組みだった。日本航空は国際線と国内の幹線、全日空は国内線と近距離の国際線――そんな線引きのなかで、各社は守られながら成長してきた。

だが1980年代に入ると、この枠組みは時代に合わなくなっていく。人々の移動はどんどん増え、求められるサービスも多様になった。航空会社からは、固定的なすみ分けの下では増え続ける需要に応えきれないという声が上がり始める。国の保護は、安定をもたらすと同時に、自由な事業の拡大を縛るものにもなっていたのだ。

海の向こうから吹いてきた風

変化を後押ししたのは、太平洋の向こうの動きだった。

アメリカでは1970年代末から航空の規制緩和が進み、航空会社どうしが自由に競い合うようになっていた。競争が運賃を押し下げ、利用者がより安く空を使えるようになる――その現象は、日本でも広く知られるところとなった。市場の力に委ねたほうが、利用者にとって良い結果が生まれるのではないか。そうした考え方が、世界の航空政策の潮流になりつつあった。

日本でも、国の役割を見直そうという機運が高まる。1985年、運輸省は45/47体制の見直しを決定した。そして翌1986年、運輸政策審議会の答申によって、体制に基づく各社のすみ分けは事実上放棄されることになる。航空政策は、国が業界を細かく調整する考え方から、規制を緩め競争を促す考え方へと、大きく舵を切ったのだ。

この転換の背景には、利用者の意識の変化もあった。出張や旅行で空を使うことが特別ではなくなり、人々は運賃やサービスを比べて便を選びたいと考えるようになっていた。一社が路線を抱え込み、利用者に選ぶ余地がほとんどない状態は、増え続ける需要の時代にそぐわなくなっていたのである。国が守るべきは、特定の会社の立場ではなく、空を使う人々の利益ではないか――そうした問い直しが、政策の根もとで進んでいた。

長く続いた秩序の終わりであり、新しい時代の始まりだった。

一つの路線に、複数の翼

この転換を、利用者の目に最も見える形で示したのが、ダブルトラッキングとトリプルトラッキングと呼ばれる仕組みだった。

それまでは、多くの路線が一社による独占に近い状態だった。たとえば1986年初めの時点でも、ある路線は一日に何往復もありながら、すべて同じ会社の便、という状況が珍しくなかった。利用者には、選ぶ余地がほとんどなかったのである。

そこで導入されたのが、需要の大きな路線に複数の会社を乗り入れさせる考え方だった。一つの路線を二社が競って運航することをダブルトラッキング、三社が運航することをトリプルトラッキングと呼ぶ。年間の利用者数が一定の基準を超える路線から、段階的に複数社の参入を認めていく仕組みである。基準となる利用者数は、当初は比較的高めに置かれ、その後の見直しのなかで徐々に引き下げられ、対象となる路線は広がっていった。

  1. 1985

    運輸省が45/47体制の見直しを決定。航空政策の転換が始まる

  2. 1986

    運輸政策審議会の答申により、各社のすみ分けが事実上放棄される

  3. 1986

    需要の大きな路線で、ダブル・トリプルトラッキングによる複数社参入が進められる

  4. 1987

    11月、日本航空が完全民営化される。半官半民の時代が終わりを告げる

同じ路線に複数の翼が並ぶようになると、会社どうしは利用者に選ばれようと工夫を競い始めた。運賃の面でも、サービスの面でも、それまでにない動きが生まれていく。便の時刻を使いやすく組み直したり、機内のもてなしに個性を出したり――選ばれる理由を、各社がそれぞれに考えるようになった。後発の挑戦者として国内線を伸ばしてきた全日空にとっても、国際線を担ってきた日本航空にとっても、競争は新しい現実となった。守られていた時代には見えなかった、各社の力量そのものが問われる場面が増えていったのだ。

複数社の参入が進んだ路線では、利用者数が伸びる傾向も見られたとされる。選択肢が増え、運賃やサービスに動きが出ることで、空の旅がより身近になっていく。規制緩和は、単に会社どうしを競わせただけでなく、空を使う人の裾野そのものを広げる方向にも働いたのである。

ナショナルフラッグの民営化

この時代、もう一つの大きな出来事があった。日本航空の完全民営化である。

日本航空は長く、国が出資する特別な会社――いわば半官半民のナショナルフラッグとして存在してきた。国の威信を背負う代わりに、国の関与も受ける立場だった。だが規制緩和の流れのなかで、その特別な地位もまた見直されることになる。1987年11月、日本航空は完全民営化され、一つの民間企業として、自らの力で競争に臨むことになった。

民営化は、経営の自由度を広げる一方で、責任の重みも増すものだった。国という後ろ盾を離れれば、業績の良し悪しは、そのまま自社の判断と努力の結果として返ってくる。同じ頃、全日空もまた、国内線で培った力を土台に、近距離の国際線へと活動の幅を広げていこうとしていた。二つの会社は、新しいルールの下で、それぞれの未来図を描き始めていたのである。

自由化の風は、利用者に選択肢と、より手の届きやすい運賃をもたらした。一方で航空会社にとっては、守られた立場を手放し、自らの判断で生き残りを図る時代の幕開けでもあった。競争は、可能性であると同時に、試練でもある。この二面性は、のちの日本の空の物語を貫いていくことになる。

護送船団の終わりとともに、日本の航空会社は、それぞれの戦略で未来を描き始めた。そしてその視線は、やがて国内にとどまらず、世界の空へと向けられていく。次回は、二社が国境を越えて広げていった戦いと協調の物語を見ていきたい。

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