日本の空、再び — 戦後の航空再開
敗戦の日、日本の空はGHQによって閉ざされた。すべての航空機が止まり、技術者も翼を失った七年間。やがて主権の回復とともに、1951年、日本航空が再び空へと舞い上がる。ナショナルフラッグ誕生までの道のりをたどる第1話。
2026年6月13日
1945年8月、戦争が終わったとき、日本の空からは飛行機の影が消えた。連合国軍総司令部、いわゆるGHQの指令によって、軍用機だけでなく民間機まで、日本人が航空機を飛ばすことそのものが止められたのだ。かつて世界に並ぶ航空技術を持つと言われた国で、設計図は焼かれ、技術者たちは別の仕事に散り、空を学ぶ場さえ閉ざされていった。空白の七年間とも呼ばれるこの時代を経て、日本が再び自分たちの翼を取り戻すまでには、長い助走が必要だった。この物語は、その閉ざされた空が、ふたたび開かれていくところから始まる。
- 1945
敗戦後、GHQの指令により、日本国籍の航空機の運航が官民を問わず全面的に停止される。
- 1950
GHQが日本の航空会社による運航禁止の方針を緩め、民間航空再開への道がひらかれる。
- 1951
8月、旧日本航空株式会社が設立。10月25日、もく星号が戦後初の国内民間定期便として羽田を発つ。
- 1952
4月、運航委託先の乗務員が操縦するもく星号が伊豆大島付近で墜落。再開直後の空に衝撃が走る。
- 1953
10月、日本航空株式会社法により、政府も出資する半官半民の新生・日本航空が設立される。
閉ざされた七年間
敗戦は、日本の航空にとって、ただ飛行機が飛べなくなったというだけの出来事ではなかった。GHQは、軍事力の解体という大きな方針のもとで、日本人が航空機を製造することも、運航することも、研究することも厳しく制限したとされる。空にまつわるあらゆる営みが、社会のなかから一度切り離されてしまったのだ。
この期間、日本の上空を飛んでいたのは外国の航空会社だった。海外へ行こうとすれば、外国の翼に頼るほかない。自分たちの国の空でありながら、その空を運ぶ手段を自分たちが持たない——独立を目前にした人々にとって、それは主権の不在を日々思い知らされるような状況でもあった。航空はしばしば、国の力や独立の象徴として語られる。だからこそ、空を取り戻すことは、単なる産業の再建を超えた意味を帯びていった。
七年という歳月は、技術にとって重い空白だった。世界では航空機がプロペラからジェットへと進化し始めていた時期に、日本はその流れから取り残される。再び飛ぶときが来ても、最初の翼は自分たちの手で作ったものではなく、外国から借り、外国の操縦士に委ねるところから始めるしかなかった。
1951年、ふたたび空へ
転機は1950年に訪れる。GHQが日本の航空会社による運航の禁止を緩める方針を示し、再開への準備が動き始めた。年が明けた1951年の初めには日本航空創立の準備事務所が開かれ、免許の申請を経て、同年8月、旧日本航空株式会社が設立される。閉ざされていた空が、ようやく日本人の手に戻り始めた瞬間だった。
そして1951年10月25日、戦後初の国内民間定期便が羽田を飛び立つ。この機体には、もく星号という名が付けられていた。アメリカのノースウエスト航空から、乗員ごと借り受けたマーチン2-0-2型機である。日本航空は営業の面を担い、実際の操縦は委託先の外国人乗務員が受け持つという、いわば借り物の翼での再出発だった。それでも、日本の航空が再び自前の路線を持ったという事実は、人々に大きな希望を与えたと伝えられる。羽田から伊丹、そして九州の板付へ。その航跡は、空白の七年を越えてつながれた、細く確かな線だった。
しかし、再開の喜びは長くは続きなかった。翌1952年4月、委託先の乗務員が操縦していたもく星号が、伊豆大島付近で墜落する事故が起こる。多くの命が失われたこの出来事は、ようやく動き出したばかりの日本の空に深い衝撃を与えた。自分たちの手で安全を確保できる体制をどう築くか——再開の高揚の裏で、航空という営みが背負う重さが、早くも突きつけられたのだ。日本航空はその後、委託契約の終わりを待って新たに購入した機体による自主運航へと踏み出し、借り物の翼から、自らの翼へと歩みを進めていった。
ナショナルフラッグの誕生
再開した航空をどのような形で育てていくか。ここで国は、ひとつの選択をする。1953年10月、日本航空株式会社法という特別な法律が定められ、政府も出資する新たな日本航空が設立された。政府の資金と旧会社の事業を合わせ、相当の資本金を持つ会社として生まれ変わったとされる。民間でありながら国が深く関わる、いわゆる半官半民の体制である。
この形には、はっきりとした理由があった。航空事業は巨額の資金と高い安全水準を必要とし、国際線ともなれば国を代表する顔として外国と向き合うことになる。生まれたばかりの戦後日本にとって、それを一民間企業の力だけで担うのは難しい。だからこそ国が後ろ盾となり、ナショナルフラッグ、すなわち国を代表する航空会社として日本航空を位置づけたのだ。新生・日本航空は、国内の幹線を担うとともに、やがて国際線を任される唯一の会社として歩み始めることになる。
もっとも、国が深く関わるということは、守られると同時に縛られるということでもあった。路線も運賃も国の方針と切り離せず、会社の自由な判断には限りがある。半官半民という仕組みは、戦後の再出発を支えた土台であると同時に、のちの時代に問い直されていく宿題の始まりでもあった。それでも、この1953年の出来事によって、日本はようやく、胸を張って「自国の空を代表する翼」を持つに至ったのだ。
こうして、閉ざされた七年間を越え、日本の空は再び日本人の手に戻った。もく星号の細い航跡から、半官半民のナショナルフラッグへ。その歩みは、決して順風だけのものではなかった。けれど、この国を代表する翼が空に浮かんだとき、日本の航空はようやく次の章へと向かう準備を整えたのだ。
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