45/47体制 ― 護送船団の空
1970年代初頭、国は日本の空に一本の線を引いた。JALは国際線と国内幹線、ANAは国内線と近距離国際、東亜国内航空はローカル線。航空憲法とも呼ばれた45/47体制は、競争よりも安定を選んだ仕組みだった。その光と影を中立にたどる。
2026年6月13日
前回まで、私たちは後発の挑戦者ANAが、ヘリコプターの小さな翼から出発し、国内線とジェット化を武器に二強の一角へとのぼりつめる姿を見てきた。国際線のJAL、国内線のANA——性格の異なる二つの翼が、同じ空を分け合うようになる。けれど、二社が自由に競い合う時代は長くは続きなかった。1970年代の初め、国がこの空に一本の線を引いたのだ。それは、のちに航空憲法とも呼ばれることになる、事業のすみ分けの取り決めだった。この回では、規制が日本の空のかたちを決めた時代——いわゆる45/47体制を、その安定と窮屈さの両面からたどる。
- 1970
昭和45年、航空各社の事業分野に関する政府の方針が閣議で了解されたとされる。これが体制の出発点となる。
- 1972
昭和47年、運輸大臣による通達が出され、各社の役割分担が具体的に示されたと伝えられる。
- 1986
国はこの体制を抜本的に見直し、翌年以降の規制緩和と路線競争への扉が開かれていくことになる。
国が引いた一本の線 ― 体制の成り立ち
45/47体制という呼び名は、いかにも無味乾燥に響く。けれどその数字には意味があった。昭和45年にあたる1970年に政府の方針が閣議で了解され、昭和47年にあたる1972年に運輸大臣の通達によって具体化された——この二つの年号が、そのまま呼称になったのだ。航空各社の役割を国が定めたこの枠組みは、強い拘束力を持ったことから、のちに航空憲法とも呼ばれるようになった。
なぜ国は、空に線を引いたのだろうか。背景には、高度経済成長のなかで急速にふくらむ航空需要と、それを担う各社の体力への懸念があった。需要が伸びるからといって、各社が思い思いに路線を広げ、限られた市場で消耗戦を繰り広げれば、共倒れの危険がある。安全な運航には、機材も整備も人員も、相応の投資が欠かせない。そこで国は、各社にそれぞれの持ち場を割り当て、過当競争を避けながら、業界全体を安定して育てる道を選んだとされる。それは、競争よりも秩序を重んじる、当時の産業政策の発想に沿うものだった。
この発想は、しばしば護送船団方式と呼ばれる。船団のなかで最も足の遅い船に速度を合わせ、一隻も落伍させずに全体を守りながら進む——金融などほかの分野でも見られた、戦後日本の産業を導いた考え方である。航空もまた、この方式のもとに置かれた。国が舵を取り、各社はその指示に従って自分の海域を航行する。日本の空は、国家の保護のもとで安定を約束された、いわば管理された海になったのだ。
三つの持ち場 ― すみ分けの設計図
では、線はどこに引かれたのだろうか。一般に伝えられるところでは、日本航空は国際線を一手に担い、あわせて国内の幹線も運航する。全日空は国内の幹線とローカル線を担い、近距離の国際チャーターなどにも携わる。そして地方のローカル線を中心に担ったのが、東亜国内航空——のちの日本エアシステムにつながる会社である。三つの会社が、それぞれの持ち場を分け合う構図だった。
この設計図には、各社の性格がよく反映されていた。ナショナルフラッグとして国際線を背負ってきた日本航空には、世界とつながる花形路線が割り当てられた。国内線を地道に積み上げてきた全日空には、列島を結ぶ幹線とローカル線という、暮らしに密着した役割が与えられた。地方の足を担ってきた会社には、より細かなローカル線が任された。これまでの実績がそのまま持ち場になった、と言ってもよいだろう。
棲み分けがもたらしたのは、予測のきく安定だった。どの会社がどの空を飛ぶのかが定まっていれば、無理な値下げ競争や路線の奪い合いは起こりにくくなる。各社は割り当てられた市場のなかで、腰を据えて機材を整え、人を育て、サービスを磨くことができた。利用者にとっても、運航は安定し、安全への投資が続けられる環境は、けっして小さくない恩恵だった。この時代、日本の航空は大きな混乱なく規模を広げ、二強を中心とした業界の骨格が固まっていく。45/47体制は、その安定を下支えした仕組みだったのだ。
守られた空の代償 ― 安定と窮屈さのあいだ
けれど、守られた空には代償もあった。国が役割を定めるということは、裏を返せば、会社が自由に挑戦する余地が狭められるということである。たとえば全日空が国際定期路線へ本格的に乗り出すことは、この体制のもとでは長く認められなかった。挑戦者として国内線を磨いてきた会社にとって、世界の空への扉は、規制によって閉ざされていたのだ。
競争が抑えられることは、利用者にとっても両面を持っていた。安定が保たれる一方で、各社が運賃やサービスで激しく競い合う動機は弱まる。同じ路線に複数の会社が乗り入れて利用者を奪い合う光景は限られ、運賃の引き下げや新しいサービスの登場は、自由な市場に比べれば緩やかだった。守られた秩序は、ぬるま湯のような安住にもなりかねない。競争の刺激が乏しいなかで、業界全体が変化への感度を鈍らせていく——そうした懸念が、時を追うごとに語られるようになっていった。
やがて時代は、規制よりも自由を重んじる方向へと動きはじめる。世界では航空の自由化が進み、国内でも、消費者のために競争を促すべきだという声が強まっていった。1986年、国はこの45/47体制を抜本的に見直し、各社が役割の壁を越えて競い合う道を開いていく。十数年にわたって日本の空を律してきた航空憲法は、ここで大きな転機を迎えた。安定の時代から、競争の時代へ——空のかたちが、ふたたび塗り替えられようとしていたのだ。
国が引いた一本の線は、十数年にわたって日本の空に秩序と安定をもたらした。三つの会社はそれぞれの持ち場を守り、二強を中心とした業界の骨格が固まっていく。けれど、守られた空には窮屈さという代償もあり、やがて自由化の風がそれを押し開いていくことになる。その物語へ進む前に、私たちは立ち止まらなければならない。安定の時代のただなかにあった1985年夏、日本の空は、戦後最大の、そして最も深い悲しみを経験することになるからである。次回は、御巣鷹の事故と、そこから航空安全がどう守られるようになったかを、深い敬意をもってたどる。
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