時代遅れに払う大金 — 機械式ルネサンスの謎
クオーツに精度で敗れたはずの機械式時計が、なぜよみがえったのか。資産価値、ステータス、そして物語への回帰——一九九〇年代以降の機械式ルネサンスをたどりながら、人が時代遅れの機械に大金を払う理由を、光と影の両面から静かに考える。
2026年6月13日
前回、私たちはスウォッチという安価なプラスチック時計が、瀕死のスイス時計産業を救った逆説を見た。大量生産の安時計が稼いだ利益と勢いが、機械式時計を高級路線へと押し上げ直す土台になった——そういう物語だった。
けれども、ここで一つの不思議が残る。クオーツ時計は、機械式よりも正確で、安く、手入れもいらない。時計の本来の役目が「正しい時刻を知ること」だとすれば、勝負はとっくについていたはずである。それなのに人々は、わざわざ歯車とぜんまいで動く、ときに月差で何分も狂う、定期的に分解掃除の費用がかかる機械に、車が買えるほどの大金を払うようになった。この章では、一九九〇年代以降に起きた機械式時計の復権——機械式ルネサンスと呼ばれる現象をたどり、人がなぜ時代遅れの機械に価値を見いだすのかを、光と影の両面から考えてむ。
正確さを降りた時計
クオーツ革命が突きつけたのは、残酷なほど明快な事実だった。正確さだけを競うなら、機械式は二度とクオーツに勝てない。この敗北を前にして、機械式時計はおもしろい選択をする。正確さという土俵から、静かに降りたのだ。
報じられているところによれば、一九八〇年代の半ばから後半にかけて、ロレックスやパテック・フィリップ、IWCといったブランドは機械式時計づくりに軸足を残し続け、いったん他社に買収されたブランパンやユリス・ナルダンなどは、機械式の名門として再生していったとされる。一九九一年には、かつて東ドイツ側にあったザクセン州グラスヒュッテで、ドイツ機械式時計の伝統を継ぐ新しい会社が産声をあげたとも伝えられる。彼らが売ろうとしたのは、もはや「正確な道具」ではなかった。手で組み上げられた機構そのもの、何百もの部品が噛み合って時を刻むという事実、そしてその背後にある何百年の伝統。時計は、機能ではなく意味を売る商品へと姿を変えていったのだ。
実用品としては時代遅れになった機械式時計が、だからこそ別の価値を帯びていく。この転換が、後の熱狂の出発点になった。
資産という名の魔法
機械式時計に大金が集まった理由の一つに、それが「資産」と見なされはじめたことがある。買った値段より高く売れる時計が現れたのだ。
きっかけの一つとして、よく語られるのが高級スポーツウォッチの存在である。一九七二年にオーデマ・ピゲが発表したロイヤル オーク、そして一九七六年にパテック・フィリップが世に出したノーチラスは、いずれもデザイナーのジェラルド・ジェンタが手がけたとされ、当時としては高価なステンレススチール製の時計だった。発表当初は強気の価格に戸惑いの声もあったと伝えられるが、数十年を経て、これらは中古市場で定価をはるかに超える値で取引される象徴的なモデルになっていった。インターネットの普及で時計の情報や相場が世界中で共有されるようになると、新しい富裕層や、値上がり益を狙う買い手が市場に流れ込む。一部のモデルは、もはや時計というより、株や金と同じように売り買いされる「持ち物」になっていった。
- 1972年
オーデマ・ピゲがロイヤル オークを発表。高価なステンレススチール製の高級スポーツウォッチという新しい価値観を打ち出す。
- 1976年
パテック・フィリップがノーチラスを発表。のちに二次流通市場を象徴するモデルの一つとなる。
- 1991年
ザクセン州グラスヒュッテで、ドイツ機械式時計の伝統を継ぐ新会社が誕生したと伝えられる。
- 1990年代以降
インターネットの普及で相場が世界共有され、機械式時計を資産として扱う動きが広がっていく。
ただし、資産としての時計には、はっきりとした影もある。値上がりを期待して買う人が増えれば、それは投機に近づく。本当に時計が好きで欲しい人の手に渡らず、転売目的の買い手が在庫を押さえてしまう。価格は人気の証であると同時に、純粋な愛好の場をゆがめる力にもなった。資産という魔法は、時計に新しい輝きを与えると同時に、時計を時計でないものに変えてしまう危うさも抱えていたのだ。
ステータスと物語への回帰
それでも、機械式時計に払われる大金のすべてが、値上がり益を狙ったものだとは言えない。多くの人を引き寄せたのは、もっと素朴な感情だった。
一つは、ステータス——身につけるものが、その人を語るという感覚である。腕に巻いた小さな機械が、努力や成功、こだわりや美意識を、言葉にせず伝える。スーツの袖からのぞく時計が、ある種の名刺のように機能する場面は、今もある。もう一つは、物語への回帰である。スマートフォンが時刻を教えてくれる時代に、あえて手巻きや自動巻きの時計を選ぶ人は、便利さではなく、その時計が背負ってきた歴史や、職人が手で仕上げたという事実、機構が動き続けるという生命感のようなものに惹かれている。父から子へ受け継ぐ、人生の節目に自分へ贈る——時計に、自分だけの物語を重ねていく。
光ばかりではない。物語やステータスへの欲望は、ときに過熱し、本来の使い手から時計を遠ざけることもある。買えない人にとって、それは憧れであると同時に、手の届かないものへの距離にもなる。機械式時計の復権は、人の心の豊かさと、欲望の暴走を、同じ手のひらに乗せていた。
正確さを降り、意味をまとうことで、機械式時計は二十世紀の終わりに鮮やかによみがえった。けれど、その手首のすぐ近くで、時計の歴史をふたたび根本から問い直す存在が、静かに登場しようとしていた。だが手首の上には、まったく新しい時計が現れていたのだ。
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