狂騒と大恐慌 ― 繁栄の崩壊とニューディール
第一次大戦に勝ち、債権国へと転じたアメリカは、空前の繁栄に酔いしれた。だが1929年、その熱狂は株価の暴落とともに崩れ落ちる。狂騒の20年代から大恐慌、そしてフランクリン・ローズヴェルトのニューディールへ。国家の役割が大きく転換した時代を描く。
2026年6月12日
前話で私たちは、米西戦争から第一次大戦へと、海の向こうへ踏み出していくアメリカを見た。大戦が終わると、国はふたたび世界の問題から距離を置こうとする。だが戦争で疲れ果てたヨーロッパとは対照的に、本土を戦火に焼かれなかったアメリカには、債務国から債権国へと立場を変えた巨大な富が流れ込んでいた。
1920年代。その富は、かつてない明るさと浮かれた空気を国にもたらす。のちに「狂騒の20年代」と呼ばれる、熱狂の幕が上がろうとしていた。
狂騒の20年代 ― 大量消費に酔う国
1920年代のアメリカは、まばゆいほどの繁栄に包まれた。
その象徴が自動車である。ヘンリー・フォードの流れ作業による大量生産は、自動車を一部の金持ちの贅沢品から、中間層の手の届く道具へと変えた。報じられるところによれば、フォードの大衆車モデルTは1927年までに累計1500万台ほどが世に送り出されたという。車が普及すれば、道路が延び、郊外が広がり、人々の暮らしの形そのものが変わっていく。
自動車だけではない。ラジオが各家庭の居間に置かれ、ニュースや音楽が空を通じて全国へ同時に届くようになった。映画館には人があふれ、スターが時代の偶像となる。冷蔵庫や洗濯機といった電化製品が売られ、月賦という新しい買い方が普及して、人々は「いま欲しいものを、後払いで」手に入れられるようになった。大量に作り、大量に売り、大量に消費する――現代につながる消費社会の原型が、この時代に形づくられていったのである。
文化もまた華やいだ。ジャズが流れ、若い女性たちは髪を短く切り、スカートを膝まで上げて踊った。1920年に女性の参政権を認める憲法修正第19条が成立したことも、新しい時代の空気を後押しした。一方で、同じ年に始まった禁酒法は、酒を求める人々の欲求を地下へ追いやり、密造と密売、そしてアル・カポネに代表されるギャングの暗躍を生んだ。光が強ければ、影もまた濃い。繁栄の裏では、農村が農産物価格の低迷に苦しみ、黒人や移民への差別、富の偏りも続いていた。
1929年、崩れ落ちた熱狂 ― 大恐慌
繁栄は、株式市場の熱狂を生んでいた。値上がりを当て込んだ人々が、借金までして株を買い、株価は実体からかけ離れて膨れ上がっていく。誰もが、この上昇はずっと続くと信じたがった。
その幻想が、1929年10月、ニューヨークのウォール街で砕け散る。10月24日の「暗黒の木曜日」に株価が急落し、つづく28日の月曜、29日の火曜には、いっそう壊滅的な売りが市場を覆った。買い手のつかない株は、紙くず同然になっていく。
暴落は、やがて経済全体をのみ込んでいった。資産を失った人々は消費を止め、物が売れなくなった工場は生産を縮め、職を失った人がさらに物を買えなくなる――負の連鎖が止まらない。銀行が次々と倒れ、預金が消え、人々の蓄えは音もなく溶けていった。株価は1929年の高値から1932年の底まで、およそ9割も下げたと記録されている。失業率は、1929年には数%にすぎなかったものが、1933年には2割を大きく超えた――およそ4人に1人が職を失った計算だとされる。
- 1920
禁酒法が施行され、女性参政権を認める憲法修正第19条が成立。狂騒の20年代が始まる
- 1927
フォードのモデルTが累計1500万台規模に。大量生産・大量消費社会が広がる
- 1929-10-24
暗黒の木曜日。ウォール街で株価が暴落し、世界恐慌の引き金となる
- 1933
失業率が2割を大きく超える。フランクリン・ローズヴェルトが大統領に就任
街には炊き出しの列ができ、職を求めてさまよう人々があふれた。テント暮らしの貧民街は、当時の大統領の名をとって皮肉まじりに呼ばれた。豊かさを誇ったはずの国が、わずか数年で深い淵へと突き落とされたのである。そしてこの恐慌は、アメリカ一国にとどまらず、世界中の経済を巻き込む「世界恐慌」へと連鎖していった。なぜここまで深刻化したのかについては、株の投機、金融政策の失敗、生産と需要の不均衡など、いくつもの要因が重なったとされ、いまも研究者の見方は分かれている。
ニューディール ― 国家の役割が変わる
絶望の底にあった1933年、新しい大統領が登場する。フランクリン・ローズヴェルトである。
彼は就任すると、矢継ぎ早に手を打った。まず全国の銀行を一時休業させ、ラジオを通じて国民に直接語りかけ、信頼を取り戻そうとする。この親しみやすい語りかけは「炉辺談話」と呼ばれ、不安にさいなまれた人々の心に届いたとされる。就任からの最初のおよそ100日間で、彼は次々と新しい政策を打ち出していった。これらをまとめて「ニューディール」と呼ぶ。
その柱は、農産物価格を立て直すための農業調整法(AAA)、産業の回復と労働者の権利を後押しする全国産業復興法(NIRA)、そしてテネシー川流域でダムや発電所を建設し、雇用と開発を同時に進めたテネシー川流域開発公社(TVA)などだった。のちには公共事業によって失業者を大量に雇い入れる仕組みも整えられていく。ニューディールはしばしば、救済(Relief)・回復(Recovery)・改良(Reform)の頭文字をとって「3つのR」と要約される。
ここで起きた変化は、個々の政策以上に大きな意味を持っていた。それまでのアメリカでは、経済は市場に任せ、政府はなるべく口を出さないという考えが根強かった。だがニューディールは、不況のときには国家が積極的に経済へ関与し、人々の暮らしを支えるべきだという発想を、政治の中心に据えたのである。国家の役割そのものが、ここで大きく転換した。
もっとも、ニューディールが大恐慌を本当に終わらせたのかについては、評価が分かれている。失業はなお高止まりし、景気は完全には回復しなかったとする見方も根強い。一方で、絶望に沈む人々に仕事と希望を与え、社会の崩壊を食い止めた意義は大きかったという評価もある。政府の権限が広がりすぎたとして、当時から批判も少なくなかった。光と影の両面を抱えたまま、アメリカは恐慌の淵からゆっくりと立ち直りつつあった。
だが、その回復を決定づけたのは、ニューディールそのものではなかったのかもしれない。立ち直りつつあった国を、こんどは世界大戦が呑み込む。そして戦争が、アメリカを超大国へと変えていく。
この記事は役に立ちましたか?
フィードバックありがとうございます!