ジャスト・ドゥ・イット — マーケティングの時代
1988年、ナイキはわずか三語のスローガンを世に放った。「Just Do It」。靴の性能ではなく、人の感情に直接語りかけるこの言葉は、スニーカーを単なる履き物から「文化」と「ステータス」へと押し上げる。広告が商品より雄弁になった時代の始まりを描く。
2026年6月12日
1988年、アメリカ。テレビの画面に、一人の老人が映し出される。御年80歳。サンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジを、上半身裸で、淡々と走っていく。早朝の冷たい空気の中、彼は毎日この橋を走るのだと語る。アスリートでも、有名選手でもない。ただ走ることをやめない一人の老人。その映像の最後に、たった三つの言葉が浮かび上がりました――Just Do It。
この三語が、スニーカーの歴史を、いえ、広告そのものの歴史を変えていくことになる。それまでの靴の宣伝は、クッション性や軽さ、素材の優秀さを競うものだった。けれどナイキが選んだのは、まったく違う道だった。靴の機能を一言も語らず、ただ見る者の心に直接、火をつける。前回、エア・ジョーダンによって「物語を売る」ことに目覚めたこの会社は、いまや感情そのものを売る領域へと踏み込んでいったのだ。
三語が生まれた夜
「Just Do It」というスローガンは、ナイキの社内ではなく、外部の小さな広告会社から生まれた。ワイデン+ケネディという、創業まもない代理店。その共同創業者ダン・ワイデンが、ナイキという最初の大口顧客のために、この言葉を絞り出したと伝えられている。
興味深いのは、この前向きで力強い言葉の背後にある、意外な来歴である。ダン・ワイデンは後年、この三語の着想を、ある死刑囚が処刑の直前に発したとされる言葉から得たと語っている。覚悟を決めて死へ向かう男の、短いひとこと。そこにあった有無を言わせぬ決然さを、ワイデンはスポーツへの呼びかけへと反転させたのだ。
この言葉が巧みだったのは、何も命令していないようでいて、見る者の心の奥にある「やれていない自分」をそっと突いてくる点にあった。靴を買えば速くなる、とは言わない。ただ、動き出せ、と背中を押す。買うべき理由を理屈で説くのではなく、動きたいという感情を呼び起こす。そして、その感情の受け皿として、ナイキの靴がそこにある――そういう広告だった。
感情を売る、という発明
ナイキはこの時代、広告に巨額の資金を投じていく。1988年だけで多額の宣伝費を費やしたと報じられ、その投資はやがて売上の劇的な伸びとなって返ってきた。スローガン登場後の十年で、ブランドの売上は桁を変えるほど膨れ上がったとされる。
広告の主役も変わっていった。ナイキは一流のアスリートやセレブリティと次々に契約し、彼らの個性そのものをブランドの物語に織り込んでいく。映画監督が演じる軽妙なキャラクターがエア・ジョーダンを語り、複数競技で活躍する万能選手が「○○を知っている」と陽気に繰り返す。広告は、もはや商品の説明ではなく、短い物語であり、エンターテインメントだった。人々は靴を売りつけられているという感覚すら忘れ、その物語のファンになっていったのだ。
- 1980年代
ライバルのリーボックがエアロビクス・ブームを背景に台頭。スポーツ用品市場の競争が激化。
- 1988
ナイキが「Just Do It」キャンペーンを開始。80歳のランナーを起用した一本のCMが象徴に。
- 1988前後
著名アスリートやセレブとの契約を拡大。広告が商品説明から「物語」へと変質する。
- 1990年代
スローガン浸透後の十年でナイキの売上が桁違いに拡大したとされる。
ここで起きていたことを、少し引いて眺めてみよう。ヘルツォーゲンアウラハの兄弟が、より良い靴という「物」を作ることに人生を賭けていた時代から、ずいぶん遠くまで来ていた。ベルンの奇跡では、靴の性能――着脱式のスタッド――が勝敗を分け、ブランドを飛躍させた。けれどこの時代、ブランドを飛躍させたのは、靴の性能ではなく、靴にまとわせた感情と物語だったのだ。
もちろん、性能の競争が消えたわけではない。エアもワッフルソールも、技術の積み重ねの上にあった。けれど、人々が靴に支払うお金の意味が、確実に変わっていったのだ。それは、足を速くする道具への対価から、ある気分やイメージ、そして「自分はこちら側の人間だ」という帰属意識への対価へと、滑らかに移り変わっていった。
靴が「文化」になる
「Just Do It」の時代を経て、スニーカーは履き物の枠を完全に超えていく。
それは、まず「文化」になった。どのブランドのどのモデルを履いているかが、その人の趣味や価値観、属するコミュニティを語る言葉になっていったのだ。とりわけ若者たちの間では、靴は音楽やファッションと地続きの、自己表現の一部だった。一足のスニーカーが、言葉以上に雄弁に、その人が何者であるかを物語る時代が来ていた。
そして、それは「ステータス」にもなった。手に入りにくい限定モデルや人気の一足は、持っているだけで羨望のまなざしを集める。靴は実用品であると同時に、ささやかな誇りや優越の象徴となり、人々はその象徴を手に入れるために行列をつくるようになっていく。後の時代に過熱していくスニーカーの限定販売や転売の文化は、この「靴がステータスになった」瞬間に、すでに芽吹いていたといえるだろう。
この変化は、アディダスにもプーマにも、無関係ではいられなかった。ヨーロッパで生まれ、競技の現場で鍛え上げられてきた老舗ブランドたちも、感情と物語を売るこの新しいゲームに、否応なく巻き込まれていく。スニーカー戦争は、製品の戦いから、イメージの戦いへと舞台を移したのだ。
けれど――三語のスローガンが世界を熱狂させ、靴が文化とステータスの頂点へと駆け上がっていったまさにその時、その華やかな表舞台からは見えない場所で、別の現実が静かに進行していた。憧れの靴が一足、また一足と生み出されていた工場。生産の現場は、いつしか遠い海の向こう、賃金の安い国々へと移されていた。スポットライトの届かないその場所に、やがてブランドの輝きを揺るがす長い影が伸びていく。次回は、その影の物語へと足を踏み入れる。
この記事は役に立ちましたか?
フィードバックありがとうございます!