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グローバル化と影 ― 工場と労働問題

輝くブランドの裏で、靴は誰がどこで作っていたのか。生産のアジア移転と、1990年代に噴き出したスウェットショップ批判、不買運動、そして三強が迫られた社会的責任への転換を、公知の事実の範囲でたどる。

2026年6月12日

スニーカーは、いつしか「履くもの」から「憧れるもの」へと姿を変えていた。テレビには一流アスリートが躍り、街にはスウッシュや三本線があふれ、一足の靴が自己表現の旗印になっていた。

だが、その光が強くなるほど、ふだんは誰も見ようとしない場所に影が落ちる。その靴は、いったい誰が、どこで、どんな条件で縫っていたのか——。1990年代、世界はこの問いを突きつけられることになる。

靴は、もう自分の国では作られていなかった

物語をさかのぼれば、答えは三強の出発点に埋め込まれている。

ナイキの前身ブルーリボンスポーツは、もともと日本のオニツカ製の靴を輸入して売る会社だった。自前のブランドを立ち上げたあとも、ナイキは「自社では工場を持たず、デザインとマーケティングに集中し、製造は外部の協力工場に委ねる」という身軽なモデルを徹底していく。創業者フィル・ナイトの回想録『SHOE DOG』が描くのは、まさに製造を外に出すことで成長を加速させた会社の物語でもあった。

やがて生産の主役は日本から、より人件費の低い韓国や台湾へ、そして中国・インドネシア・ベトナムへと移っていった。アディダスやプーマも、ドイツや欧州での自社生産を縮小し、生産拠点をアジアへ移していく。三強に共通していたのは、ブランドは本国に残し、汗をかく工程は委託先に任せるという構図だった。

消費者が見ていたのは、テレビCMの中で輝くスター選手だった。その靴を実際に縫っていた人々の顔は、箱の外には決して印刷されていなかった。

1991年、一本のレポートが火をつけた

転機は1991年とされる。労働運動家ジェフ・バリンジャーが、インドネシアのナイキ委託工場における低賃金と過酷な労働環境を告発するレポートを発表した。

報じられた内容は人々を驚かせた。インドネシアの労働者の賃金は一日あたり一ドルにも満たず、ある下請け工場の労働者は時給十数セントだったとされる。中国やベトナムでも、現地の生活水準に見合わない低賃金で長時間働かされているとの指摘が相次いだ。

批判の矛先がとりわけナイキに向かったのは、皮肉にもナイキが最も成功し、最も目立っていたからでもある。「Just Do It」で世界を熱狂させたブランドの足元に、暗い問いが突きつけられた。1992年のバルセロナ五輪では、ナイキへの抗議行動が報じられた。「搾取工場(スウェットショップ)」という言葉が、スポーツ用品の華やかな世界に貼り付いていった。

ここで重要なのは、これがナイキ一社の問題として始まりながら、やがて業界全体への問いへと広がっていったことだ。委託生産という設計図そのものを、三強はみな共有していたからである。

「自分たちの責任ではない」という壁

批判に対して、ブランド側の初期の反応は鈍かったとされる。

ナイキは当初、「生産はあくまで独立した委託先に任せており、その工場の労働環境は自社の責任範囲ではない」という立場をとったと報じられている。法的にはひとつの論理ではあった。だが、世論はそれを受け入れなかった。むしろ「これだけ儲けていながら、作っている人の責任は取らないのか」という反発が、火に油を注ぐ結果になった。

批判は具体的な行動へと変わっていく。ナイキ店舗の前でのピケッティング、不買運動、そして大学キャンパスでの抗議。学生たちは「自分たちの大学の名前が入ったグッズが、搾取された労働で作られていないか」を問い、いくつかの大学はブランドとの契約見直しに動いたと報じられた。

経営者が頭を下げた日

潮目が変わったとされるのが、1998年5月のことだ。

当時のナイキCEOフィル・ナイトは公の場で、「ナイキ製品は、奴隷的な低賃金、強制的な残業、そして恣意的な虐待の代名詞になってしまった」という趣旨の厳しい言葉を口にしたと報じられている。自社製品をここまで突き放して語る経営者の姿は、大きな注目を集めた。

このときナイキは、委託工場での労働環境を改善するための施策を打ち出した。労働者向けの教育プログラムの拡充や、最低年齢の引き上げ、有害物質の管理基準の強化などである。

業界全体の枠組みも動いた。クリントン米大統領のもとで作られた作業部会を母体に、企業と労働・人権団体が参加する仕組みが整えられ、1999年には公正労働協会(FLA)が設立されたとされる。独立した監視と行動規範によって、工場の環境を継続的にチェックしようという試みだった。

もっとも、これですべてが片付いたわけではない。ナイキの労働問題をめぐっては、企業の声明が消費者を誤認させたかどうかが争点となった訴訟(ナイキ対カスキー事件)が起こされ、2003年に和解で決着したと報じられている。批判と改善、そしてまた新たな問い——その往復は、その後も続いていった。

影を見たブランドは、何を学んだのか

ここで時系列を整理しておきたい。グローバル化の中で生産はアジアへ移り、批判が噴き出し、ブランドが社会的責任へと舵を切るまでの流れである。

  1. 1980s

    三強が生産拠点を韓国・台湾、さらに中国・インドネシア・ベトナムへと移していく

  2. 1991

    ジェフ・バリンジャーがインドネシアのナイキ委託工場の労働環境を告発するレポートを発表したとされる

  3. 1992

    バルセロナ五輪でナイキへの抗議行動が報じられる

  4. 1998

    ナイキCEOフィル・ナイトが公の場で問題を認め、労働環境の改善策を表明したと報じられる

  5. 1999

    企業と労働・人権団体が参加する公正労働協会(FLA)が設立されたとされる

  6. 2003

    ナイキ対カスキー事件が和解で決着したと報じられる

この章で語られたことは、特定の一社を断罪するための物語ではない。委託生産という同じ設計図を共有していた三強すべてにとって、これは避けて通れない試練だった。プーマもアディダスも、それぞれに行動規範を整え、サプライチェーンの環境を点検する取り組みを進めていったとされる。

スニーカーの歴史は、しばしば華やかな広告とスターの物語として語られる。だが、その靴が世界中の人々の手で縫われている以上、ブランドの価値は工場の現実と切り離せない。1990年代の試練は、そのことを業界に刻みつけた。

光の強さは、影の濃さでもある。三強がそれを見たとき、スニーカー戦争はただの売上競争ではなく、「どう作り、どう向き合うか」を問われる戦いへと、その意味を変えていった。

そして物語は、いよいよ現在へとたどり着く。三強は、次の100年をどう生きるのか。

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