三つの事故 ― スリーマイル・チェルノブイリ・福島
夢のエネルギーと呼ばれた原子の火は、三度、人類に重い問いを突きつけた。スリーマイル島、チェルノブイリ、福島第一――。被災と犠牲への敬意をもって、後知恵の断罪を避け、推進と脱原発のあいだで揺れ続けた半世紀を、公的記録の範囲で静かにたどる。
2026年6月14日
原子力は、二十世紀の半ばに「夢のエネルギー」として迎えられた。わずかな燃料で膨大な電力を生み、煙突から煤煙を吐き出すこともない――。前話までに見てきたように、人類はこの新しい火に大きな希望を託した。
けれども、巨大な力を扱うということは、巨大な失敗の可能性を抱え込むということでもある。半世紀のあいだに、原子の火は三度、人類に重い問いを突きつけた。スリーマイル島、チェルノブイリ、福島第一。それぞれの事故は、原因も規模も、置かれた時代も大きく異なる。この記事は、いずれの事故についても、被災された方々と犠牲になった方々への敬意を第一に、公的記録の範囲で、そして特定の立場に与しない姿勢でたどることを心がける。
スリーマイル島 ― 過信への最初の警告
最初の衝撃は、アメリカで起いた。1979年3月28日、東部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所2号機で、深刻な事故が発生する。
きっかけは、二次冷却系の給水ポンプが停止したことだった。それ自体は致命的な故障ではない。問題は、その後に連鎖した複数の不具合と、運転員が状況を正しく把握できなかったことにあった。冷却水を逃がす弁が開いたまま戻らず、計器の表示も誤解を招くもので、人々は炉心が冷却材を失いつつあることに気づけなかった。結果として炉心の一部が溶融し、放射性物質の一部が外部へ放出された。国際的な事故評価の尺度(INES)では、後にレベル5に分類されている。
周辺地域では、妊婦や幼い子どもを中心に避難勧告が出され、自主的なものも含めて多くの住民が一時的に地域を離れた。一方で、この事故による直接の死者は確認されていない、というのが公的な記録の整理である。健康影響については長年にわたり調査と議論が続けられてきた。
チェルノブイリ ― 制御を失った夜
七年後、世界は桁違いの惨事を目の当たりにする。1986年4月26日、当時のソビエト連邦、現在のウクライナにあるチェルノブイリ原子力発電所4号機で、原子炉が暴走し爆発した。
事故は、ある安全試験の最中に起いた。低出力の不安定な状態で運転が続けられ、この型の原子炉が持つ特性と、いくつもの規則を逸脱した手順が重なって、出力が瞬時に制御を超えて急上昇する。原子炉は爆発し、建屋は吹き飛び、炉心の火災は長期間にわたって大量の放射性物質を大気へ放出し続けた。放出された物質は風に乗り、ヨーロッパの広範囲に達したと記録されている。
人的な被害は深刻だった。ソ連政府が国際原子力機関へ提出した報告などによれば、事故直後に原子炉の職員と消火活動にあたった消防士ら31人が亡くなり、急性放射線症を発症した多くの作業員のうち、事故後の数か月で28人が、その後の十年で14人が亡くなったとされる。さらに広い地域で、長期的な健康影響や避難の負担が問題となり続けた。被ばくの全体的な影響をめぐっては、国連科学委員会などが慎重な評価を重ねてきましたが、推計には依然として幅があり、断定的に語ることは難しいというのが実情である。
- 1979
米スリーマイル島2号機で炉心溶融事故。INESレベル5。直接の死者は確認されていない。
- 1986
チェルノブイリ4号機が爆発。INESレベル7。作業員・消防士らに多数の犠牲。
- 2011
東日本大震災の津波で福島第一が全電源を喪失。後にINESレベル7と評価。
- 2011
ドイツが事故を受け、原発を2022年末までに全廃する方針を法制化。
無数の作業員が、自らの被ばくを覚悟して事故の収束にあたった。彼らの献身があってなお、被害は広大な地域と長い時間に及んだ。チェルノブイリは、原子力が一度制御を失ったときに何が起こりうるかを、人類の記憶に深く刻みつけたのだ。
福島第一 ― 自然の猛威と複合災害
そして2011年3月11日、日本でその記憶がよみがえる事態が起こる。午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が東日本を襲った。
東京電力福島第一原子力発電所は、地震の揺れそのものには緊急停止で対応した。しかし、その後に到達した巨大な津波が事態を一変させる。十数メートルに及ぶ波が施設を浸し、非常用も含めた電源のほとんどが失われた。原子炉を冷やし続けるための電力を断たれた1号機から3号機では、炉心の溶融が進み、発生した水素によって建屋が相次いで爆発する。放射性物質が周囲へ放出され、広い範囲の住民が避難を強いられた。事故の評価は当初の暫定値から段階的に引き上げられ、最終的にINESレベル7とされた。レベル7に分類された事故は、チェルノブイリと福島第一の二つだけである。
福島の事故は、地震と津波という巨大な自然災害に原子力災害が重なった複合災害だった。多くの人々が、住み慣れた土地を離れ、長い避難生活と帰還への困難に直面した。その被災の重みと、被災された方々のいまなお続く歩みに、深く思いを寄せる必要がある。
答えの出ない問いの前で
三つの事故を経て、世界の選択は一つにまとまることはなかった。
福島の事故の直後、ドイツは大きく舵を切る。もともと原子力を活用する立場だった政権が方針を転換し、2011年のうちに、国内の原子力発電所を2022年末までに全廃する方針を法律として定めた。安全への不安を最優先に置いた決断だった。一方で、フランスのように電力の多くを原子力に頼り続ける国もあり、近年では脱炭素の文脈から、安全性を高めたうえで原子力を活用しようとする動きを見せる国も少なくない。同じ事故を見ても、各国が置かれたエネルギー事情や価値観によって、進む方向は分かれたのだ。
原発を推進する立場には、安定した低炭素の電力を大量に供給できるという論拠がある。脱原発を求める立場には、事故が起きたときの被害の大きさと、その後始末や廃棄物の重さを直視すべきだという論拠がある。どちらの主張にも、真剣に向き合うべき事実と懸念が含まれている。この連載は、そのいずれかに与するものではない。
確かなのは、三つの事故が、原子力をめぐる議論を「夢」か「悪夢」かという単純な二択から引き離したということである。巨大な力には、巨大な恩恵と巨大な責任が分かちがたく結びついている――その重い認識を、人類は事故の代償として得たのだと言えるかもしれない。
そして、この問いに社会が立ちすくんでいたまさにその時期、危機の中から、まったく別の方向に芽吹こうとしていた力があった。風と光という、ありふれていながら見過ごされてきたエネルギーが、静かに育ち始めていたのだ。
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