原子の火 ― 夢のエネルギーと呼ばれた時代
兵器として生まれた原子の力は、やがて平和利用へと舵を切る。世界初の原発、アイゼンハワーの演説、そしてオイルショックが後押しした推進の波。原子力が夢のエネルギーと呼ばれた時代を、推進論と慎重論の両面を併記しつつ中立にたどる。
2026年6月14日
前回まで、私たちは川をせき止め、送電網を張り巡らせて、自然の力を国家の規模で束ねる人類の姿を見てきた。けれど水力にも火力にも限界があった。ごくわずかな物質から、石炭の数百万倍ともいわれる桁違いのエネルギーを取り出せる——20世紀の半ば、物理学はそんな途方もない力の扉を開く。原子の核を割ることで生まれる、核分裂のエネルギーである。それは最初、人類史上もっとも凄惨な兵器として世に現れた。けれど同じ力が、やがて平和利用へと舵を切り、夢のエネルギーと呼ばれる時代を迎える。この回では、原子の火が希望とともに迎えられた時代を、推進論と慎重論の両方の見方を併記しながら、中立にたどる。
- 1953
アメリカのアイゼンハワー大統領が国連で「平和のための原子力(Atoms for Peace)」と題する演説を行う。核技術を平和利用へ転じる構想を世界に呼びかけた。
- 1954
ソ連のオブニンスクで、送電網に電気を供給した世界初の原子力発電所が運転を始めたとされる。
- 1966
日本初の商業用原子力発電所として、茨城県の東海発電所が営業運転を開始する。英国で開発された炉型を原型としていた。
兵器から発電へ ― 平和利用への転換
原子力の歴史は、その出発点に深い影を負っている。核分裂という現象が最初に大きな力として世に現れたのは、第二次世界大戦の終わり、都市を一瞬で焼き尽くした兵器としてだった。原子の力は、何より先に、人類がそれまで手にしたことのない破壊の道具として記憶されたのだ。
戦後、この恐るべき力をどう扱うかは、世界にとって重い問いとなった。冷戦のもとで核兵器がふくれあがっていくなか、1953年、アメリカのアイゼンハワー大統領は国連で「平和のための原子力」と題する演説を行う。核の技術を破壊ではなく、発電や医療といった平和な目的へ振り向けよう——そう世界に呼びかけたのだ。この演説は、各国が原子力を平和利用するための国際的な枠組みづくりを後押しし、原子力の平和利用を進める国際機関の設立へとつながっていったと伝えられる。
もっとも、その平和利用が純粋に善意だけから生まれたわけではないことも、書きとめておくべきだろう。初期の原子炉のなかには、発電とあわせて兵器に使う物質を生み出す目的を持つものもあったとされる。希望の言葉の裏には、冷戦の駆け引きが影を落としていた。それでも、人類が破壊の力を別の方向へ向け直そうとしたこと自体は、ひとつの大きな転換点であったと言える。
夢のエネルギー ― 世界に広がる原子力
平和利用への扉が開くと、原子力発電は驚くほどの速さで世界に広がっていく。送電網に電気を供給した最初の原子力発電所は、1954年、ソ連のオブニンスクで運転を始めたとされ、出力は小さなものでしたが、原子の力で家々に灯りをともす時代の幕開けを告げた。続いてイギリスやアメリカでも、実用規模の原子力発電所が次々と動き始める。日本でも1966年、茨城県の東海発電所が日本初の商業用原子力発電所として営業運転に入り、原子力時代へ足を踏み入れた。
この時代、原子力はまさに「夢のエネルギー」として語られた。ごくわずかな燃料から膨大な電気を取り出せ、煙突から煤煙を吐くこともない。資源に乏しい国でも、自前のエネルギーを確保できる希望の技術と見なされたのだ。一部では、いずれ電気は計り売りするまでもなく安くなる、といった楽観的な未来像さえ語られたと伝えられる。科学技術が人類を豊かさへ導くという、この時代らしい高揚が、原子の火を明るく照らしていた。
石油危機が押した背中 ― 推進論と慎重論のあいだ
原子力推進の波を決定的に強めた出来事が、1970年代に起く。中東情勢を背景とした石油の供給不安、いわゆるオイルショックである。原油の価格が急騰し、石油に頼りきった国々の経済が大きく揺さぶられた。とりわけ資源の乏しい国にとって、これは深刻な警告だった。エネルギーを一部の産油地域に握られたままでは、国の経済も暮らしも、その都合に振り回されてしまう——その危機感が、自前で電気を生み出せる原子力への期待を、いっそう押し上げたのだ。多くの国が、エネルギー安全保障の柱として原子力発電所の建設を加速させていった。
推進する側は、こう論じた。原子力は、少ない燃料で安定して大量の電気を供給でき、特定の資源国に依存せずにすむ。運転中に二酸化炭素をほとんど出さず、大気を汚さない。技術を磨き、管理を徹底すれば、その力は人類の繁栄を長く支える礎になる——と。エネルギーの自立と環境への配慮を両立させる現実的な選択肢だ、というのが推進論の核心だった。
一方で、当初から慎重な見方も存在していた。慎重論は、こう問いかける。原子炉が万一深刻な事故を起こせば、その被害は他のどの発電とも比べものにならないほど広く、長く及ぶのではないか。運転で生じる放射性の廃棄物を、何万年という長い時間にわたって安全に管理し続けられるのか。そのコストと責任を、未来の世代に押しつけることにならないか——と。安さや効率という目先の利点の陰に、容易には引き受けがたい代償が隠れているのではないか、という警告だった。
兵器として生まれた原子の力は、平和利用へと向きを変え、石油危機を追い風に、夢のエネルギーとして世界に広がっていった。推進論はその力に未来を託し、慎重論はその影に警鐘を鳴らしながら、原子力の時代は確かに前へ進んでいく。けれど、人間がつくり出した制御の体系は、完全ではなかった。やがて夢は、現実の事故という形で試されることになる。次回は、原子の火が三度、人類に牙をむいた瞬間——スリーマイル島、チェルノブイリ、そして福島の物語へ、被災への敬意をもって進む。
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