アジア初の近代憲法 ― 大日本帝国憲法 1889
1889年2月11日、明治天皇が国民に「与える」形で発布された大日本帝国憲法。アジアで初めての本格的な近代憲法だった。天皇を主権者とし、議会と権利保障を備えつつも、君主権を強く残す。その精巧な構造と、後に大きな問題となる「統帥権」という影を読み解く。
2026年6月26日
明治維新からおよそ二十年。日本は、欧米列強と対等に渡り合うため、近代国家の体裁を急いで整えようとしていた。その総仕上げとなったのが、憲法の制定である。前回見たように、伊藤博文らはプロイセン型の君主権の強い憲法を手本に選び、長い準備の末に草案を練り上げた。そして1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布される。アジアで初めての、本格的な近代成文憲法の誕生だった。
- 1882年
伊藤博文が渡欧し、プロイセン型の憲法理論を学ぶ。井上毅らと草案を起草。
- 1889年2月11日
大日本帝国憲法が、天皇が国民に授ける欽定憲法として発布される。
- 1890年
憲法が施行され、第1回帝国議会が開かれる。立憲政治が始動する。
天皇が「与える」憲法
大日本帝国憲法の最大の特徴は、それが欽定憲法であったことである。前回までに見た「与える憲法」と「勝ち取る憲法」の区別でいえば、これは前者にあたる。憲法は、天皇が国民に「恵み与える」という形をとった。主権は天皇にあり、天皇は国の元首として、統治権を総攬する ― すなわち、すべての統治権をその手に握る存在とされたのだ。
それでも、この憲法は、たんなる専制の道具ではなかった。帝国議会という、国民の代表が集う議会を設け、法律の制定や予算の審議には議会の協力を必要とした。臣民(国民)の権利も、言論や信教の自由などが定められている。形式としては、立憲君主制の体裁を確かに整えていたのだ。アジアの一国が、独力で近代憲法を作り上げ、議会政治を始めたこと自体、当時の世界では画期的な出来事だった。
強い君主権という設計
ただし、議会や権利保障には、いくつもの制約がついていた。臣民の権利は、「法律の範囲内において」認められるものとされ、法律によって制限することが可能だった。また、天皇は議会の関与なしに緊急の命令を出す権限など、強大な大権を持っていた。議会は、政府を完全に統制できるわけではなかったのだ。
そして、後に決定的な問題となったのが、軍に関する権限、いわゆる統帥権だった。憲法上、陸海軍を率いる権限(統帥権)は天皇に直属するものとされ、議会や政府(内閣)の関与の外に置かれていると解釈されるようになる。これは、軍が政治のコントロールから独立しうる、という危うさをはらんでいた。平時にはあまり意識されなかったこの構造が、時代が進むなかで、しだいに大きな影を落としていくことになる。
「大正デモクラシー」と、その後
実際、この憲法のもとで、日本の政治は一方向に進んだわけではなかった。明治の終わりから大正にかけては、政党政治が発展し、普通選挙を求める運動が高まるなど、立憲的な方向への前進が見られる。「大正デモクラシー」と呼ばれるこの時期には、憲法の立憲的な側面を生かそうとする動きが確かにあった。憲法の解釈をめぐっても、天皇を国家の最高機関と位置づけて議会政治と調和させようとする学説が、有力な地位を占めた時期もあった。
ところが、その流れは長くは続きなかった。昭和に入り、経済の混乱や対外的な緊張が高まるなかで、軍部の発言力が増していく。統帥権の独立という構造が、軍の政治への介入を許す入り口となり、政党政治はしだいに後退していった。憲法の条文そのものは変わらないまま、その運用は、立憲的な方向から、軍部が主導する方向へと大きく傾いていったのだ。同じ憲法が、まったく違う顔を見せたことになる。
敗戦が書き換えるもの
軍部が主導する道を進んだ日本は、やがて長く大きな戦争へと突き進み、1945年、敗戦を迎える。国土は焦土と化し、国家のあり方そのものが、根底から問い直されることになった。占領下に置かれた日本に求められたのは、たんなる復興ではなく、国の仕組みそのものの作り替えだった。その中心にあったのが、憲法の改正である。
天皇主権から国民主権へ。強い軍事から、戦争の放棄へ。大日本帝国憲法が抱えていた構造は、敗戦を機に、まったく異なる原理へと書き換えられていく。それは、世界の憲法史の大きな流れ ― 国民主権と人権、平和への希求 ― が、敗戦という劇的な形で日本に流れ込んだ瞬間でもあった。次回は、この連載でもっとも慎重に、多くの議論があるテーマを扱う。日本国憲法の誕生である。物語は1947年へ。
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