議会が王に勝った日 ― 名誉革命と権利章典 1689
1688年、イングランドは血をほとんど流さずに王を取り替えた。名誉革命である。翌年の権利章典は、「王は議会の同意なしに法を停止できない」と定め、議会主権の時代を開く。そして思想家ロックが、その革命に理論を与えた。立憲主義の第二の源流をたどる。
2026年6月20日
マグナ・カルタから四百年あまり。イングランドでは、王と議会のせめぎ合いが続いていた。王は「王権は神から授かったもの(王権神授説)」だと主張し、議会はそれに抵抗する。十七世紀には、王が処刑される内乱(清教徒革命)まで起いた。その長い対立に、ひとまずの決着をつけたのが、1688年の出来事である。ほとんど血を流さなかったことから、それは「名誉革命」と呼ばれた。
- 1642年〜
清教徒革命。王と議会が内乱で衝突し、のちに国王チャールズ1世が処刑される。
- 1688年
名誉革命。専制的な王ジェームズ2世が追われ、新たな王夫妻が迎えられる。
- 1689年
権利章典(権利の章典)が制定され、議会の優位が法として確立される。
血を流さずに王を替える
十七世紀後半、イングランドの王ジェームズ2世は、議会を軽んじ、自分の意のままに法を停止したり、軍を動かしたりしようとした。カトリックを優遇する姿勢も、プロテスタントが多数を占める国内の反発を招く。人々の不満は高まっていった。
そこで議会の有力者たちは、思い切った手を打つ。王の娘メアリと、その夫であるオランダ総督ウィレム(英語名ウィリアム)に、海を越えて来てもらい、新たな王として迎えることにしたのだ。1688年、ウィレムが軍を率いてイングランドに上陸すると、味方を失ったジェームズ2世は戦わずに国外へ逃れた。大きな戦闘も流血もないまま、王が交代したのだ。
権利章典 ― 王を縛る条文
新たな王夫妻ウィリアムとメアリは、即位にあたって、議会が示した条件を受け入れた。それが1689年の権利章典(権利の章典)である。
そこには、王の権力を縛る具体的なルールが並んでいた。王は、議会の同意なしに法律を停止してはならない。議会の同意なしに税を課してはならない。平時に議会の承認なく常備軍を置いてはならない。議会の選挙は自由でなければならず、議会内での言論は外部から罰せられない ― 。マグナ・カルタが「王は法の下にある」と原則を示したのに対し、権利章典は「では、具体的に何をしてはいけないのか」を一つひとつ明文化したのだ。ここに、「議会こそが国の最高の権力である」という議会主権の考え方が、はっきりと姿を現した。
ロックが革命に与えた理屈
この名誉革命に、思想の言葉を与えた人物がう。哲学者ジョン・ロックである。彼は『統治二論(市民政府二論)』で、後の世界に深い影響を残す考え方を示した。
ロックによれば、人はみな生まれながらに、生命・自由・財産といった権利を持っている。国家(政府)は、その権利を守るために、人々の同意にもとづいて作られた存在にすがない。だから、もし政府がその役目を裏切り、人々の権利を侵すなら、人々はその政府に抵抗し、取り替える権利を持つ ― 。これは、名誉革命を正当化する理屈であると同時に、後のアメリカ独立やフランス革命をも動かす、強力な思想となった。「権力は人々のためにある」という発想が、ここで明確に言葉になったのだ。
海を渡る思想
名誉革命と権利章典、そしてロックの哲学。これらによって、イングランドは「議会が王を縛る」という統治のかたちを確立した。ただし、ここで生まれたのは、一冊にまとまった「成文憲法」ではない。イギリスの憲法は、マグナ・カルタや権利章典など複数の文書と慣習の積み重ねからなる、いわば「書かれざる憲法(不文憲法)」である。一つの文書にすべての原則を書き込む、という発想は、まだ生まれていなかった。
その発想を、大胆に実現してみせたのは、海の向こうの新しい国だった。イギリスの植民地だった人々が、本国に反旗をひるがえし、独立を勝ち取り、自分たちの国をゼロから設計しようとする。ロックの思想を携えて大西洋を渡った「権力を縛る」という発明は、新大陸でついに、世界初の本格的な一冊の憲法へと結実するのだ。物語はアメリカへ。
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