戦争と野球 — 中断と復活
アメリカ生まれの野球は、戦争という時代の波に飲み込まれていく。敵性スポーツとされ、用語は国語化され、やがてリーグそのものが中断する。だが焼け跡の上で、野球はふたたび人々の熱狂を取り戻した。中断から復活、そして1950年の二リーグ分立まで、激動の十数年をたどる。
2026年6月12日
前回、私たちは異国の球技が半世紀をかけて日本に根づき、1936年に職業野球が産声をあげるまでをたどった。学生も大人も巻き込んだこの熱狂は、しかし長くは続きなかった。日本が戦争へと深く踏み込んでいくにつれ、野球そのものが「敵の国の遊び」として問われる時代が訪れたのだ。バットとボールが時代の荒波に揉まれ、やがて中断し、そして焼け跡の上でふたたびよみがえる——。この回では、戦争という大きな波に野球がどう翻弄され、どう立ち上がったのかを見つめる。
- 1943
陸軍からの圧力を背景に、日本野球連盟が野球用語の日本語化を決定したと伝えられる。ストライクは「よし」などと言い換えられた。
- 1944
戦争の激化により、プロ野球のリーグ戦は秋から中止に追い込まれていく。
- 1945
終戦。同年11月には早くも東西対抗の試合が行われ、戦後の野球復活の象徴とされた。
- 1946
プロ野球のリーグ戦が再開。焼け跡の日本で、野球は人々の娯楽として急速に息を吹き返す。
- 1950
セントラル・リーグとパシフィック・リーグの二リーグ制が始まり、日本野球連盟は発展的に解散する。
「敵性スポーツ」とされた野球
太平洋戦争へと突き進むなか、アメリカ生まれの野球は難しい立場に置かれていった。英語をはじめとする敵国の言葉や文化を遠ざけようとする空気が社会に広がり、野球もまた「敵性スポーツ」という視線にさらされたとされる。アメリカで生まれ、英語の用語であふれたこの競技は、時代の標的になりやすかったのだ。
その象徴とされるのが、野球用語の国語化だった。1943年(昭和18年)、陸軍方面からの圧力を背景に、日本野球連盟が用語を日本語へ言い換えることを決めたと伝えられている。ストライクは「よし」、ボールは「悪球」、アウトは「ひけ」など、これまで耳になじんだ英語の合図が、次々と日本語に置き換えられていった。慣れない言い換えに審判がとまどい、思わず観客を笑わせる一幕もあったと語り継がれている。
選手のユニフォームから横文字が消え、応援のかけ声まで様変わりしていく——。野球はもはや純粋な楽しみではなく、時代の緊張をそのまま映す鏡になっていた。とはいえ、こうした言い換えがどこまで徹底され、現場でどれほど守られていたかについては、証言にも幅がある。窮屈な制約のなかでも、球を追う若者たちの情熱までは簡単に消せなかった、と見る向きもある。
中断、そして焼け跡からの復活
戦況が悪化するにつれて、野球を続けること自体がしだいに難しくなっていった。選手は次々と戦地へ赴き、球場の資材や移動の手段も乏しくなっていく。そしてついに、1944年(昭和19年)の秋には、プロ野球のリーグ戦は中止へと追い込まれていった。前回ふれた沢村栄治をはじめ、多くの選手が戦争によって命を落としたことも、忘れてはならない事実である。華やかに幕を開けたはずの職業野球は、わずか数年で時代の闇に飲み込まれてしまったのだ。
ところが、終戦を迎えると、野球は驚くほどの速さでよみがえる。焼け跡が広がり、食べるものにも事欠く日々のなかで、人々は娯楽を強く求めていた。1945年(昭和20年)11月には早くもプロの選手を集めた東西対抗の試合が行われ、これは戦後の野球復活を告げる象徴的な出来事として記憶されている。翌1946年(昭和21年)には、プロ野球のリーグ戦が本格的に再開された。
なぜ、これほど早く立ち上がれたのだろうか。背景には、戦争で押し殺されていた人々の娯楽への渇望があったとされる。明るい歓声、勝敗に一喜一憂する高ぶり、ひいきの選手に夢を重ねる時間——失われていたそうした感情が、野球とともに一気に戻ってきたのだ。バットの音とボールの軌跡は、焼け跡の人々にとって、日常が帰ってきたことのしるしでもあった。
国民的熱狂と、二リーグ分立への道
戦後の野球は、戦前をしのぐ勢いで人々の心をつかんでいく。新しいスター選手が次々と現れ、球場には観客があふれ、新聞は連日その活躍を報じた。野球はふたたび、世代や地域を超えて共有される国民的な関心事へと育っていく。前回見た学生野球の熱狂が、こんどはプロの世界でもいっそう大きく花開いていったのだ。
その盛り上がりは、新たな球団をこの世界に呼び込もうとする動きを生んだ。1949年(昭和24年)、新球団の参入をめぐって、球界は大きく揺れることになる。新しく加わりたいと願う新聞社系の球団があり、その参入に賛成する側と反対する側とで意見が真っ二つに割れたのだ。話し合いはまとまらず、対立はやがて、リーグそのものを二つに分けるという決着へと向かっていった。
こうして1950年(昭和25年)、日本のプロ野球は二つのリーグへと分かれ、新たな時代へ踏み出した。分立のきっかけは対立でしたが、参入する球団が増えたことで、野球はより多くの企業や地域を巻き込みながら裾野を広げていく。二つのリーグがそれぞれの覇権を競い、その頂点で日本一を決める——のちの日本シリーズへとつながる骨格が、このとき形づくられた。戦争で一度は途絶えかけた野球は、わずか数年で国民的スポーツの座を取り戻し、むしろ以前より大きな器を手にしたのだ。
焼け跡から立ち上がった日本野球の復活は、まぎれもなく「光」の物語だった。人々は野球とともに日常を取り戻し、球場には平和な時代の歓声がこだました。けれど、急速にふくらんだ繁栄は、その裏側に新しいひずみも抱え込んでいく。選手の待遇、カネの流れ、そして勝利をめぐる誘惑——。やがて球界の信用そのものを揺るがす、最初の大きな闇が、この熱狂の影で静かに広がりはじめていたのだ。
この記事は役に立ちましたか?
フィードバックありがとうございます!