自国開催、初めての決勝トーナメント — 2002
アジア初、そして史上初の共催。2002年、ワールドカップは日本と韓国にやってきた。トルシエ率いる日本は初勝利、初の決勝トーナメント進出を果たし、列島はかつてない熱に包まれる。だがベスト16の壁は、思いのほか冷たく硬かった。自国開催の物語。
2026年6月23日
2002年の初夏、日本列島は青く染まった。ワールドカップが、ついに自分たちの国で開かれる。アジアで初めて、しかも日本と韓国が共同で開催するという、サッカー史上前例のない大会だった。前回フランスで3戦全敗を喫した日本は、この四年間で別のチームへと姿を変えていた。
- 1998年
フィリップ・トルシエが日本代表監督に就任。フラットスリーの守備を植えつける。
- 2002年6月
自国開催のワールドカップ。ベルギー・ロシア・チュニジアと同組(グループH)。
- 2002年6月18日
決勝トーナメント1回戦でトルコに0対1。初のベスト16で敗退。
トルシエの四年間
フランス大会のあと、日本代表の指揮を託されたのはフランス人のフィリップ・トルシエだった。「白い呪術師」とも呼ばれた個性的な監督は、フラットスリーと呼ばれる横一線の守備ラインを徹底的に仕込み、組織で戦うチームを作り上げた。
その成果は予兆として現れていた。2000年のアジアカップ優勝、そして2001年のコンフェデレーションズカップ準優勝。自国開催という重圧のなかで、日本は「ホストとして恥ずかしくない戦い」どころか、「本気で勝ちにいけるチーム」へと育っていた。中田英寿、中村俊輔、稲本潤一、小野伸二——欧州に渡る選手も現れ、タレントの層は明らかに厚くなっていた。
初勝利、そしてグループ突破
グループHの初戦はベルギー。試合は打ち合いになり、鈴木隆行のゴール、そして稲本潤一のゴールで日本は2点を奪うも、2対2の引き分けに終わる。勝ち点こそ分け合ったが、世界相手に得点を重ねたこと自体が、四年前からの確かな成長だった。
第2戦ロシア戦。後半、稲本がこの日2試合連続となる決勝ゴールを叩き込み、日本は1対0で勝利する。ワールドカップにおける、待望の初勝利だった。試合後、各地の街頭は歓喜の渦に包まれ、列島はサッカー一色に染まった。
第3戦チュニジア戦。先制点は森島寛晃、追加点は中田英寿。2対0で快勝し、日本はグループHを1位で通過した。初出場からわずか一大会で全敗から首位突破へ——日本サッカーは、自国の大観衆の前で確かな飛躍を遂げた。
トルコ戦、ベスト16の壁
迎えた決勝トーナメント1回戦の相手は、トルコだった。試合は宮城スタジアムで行われ、日本は雨のなかで戦った。
前半12分、コーナーキックの流れからウミト・ダバラにヘディングで先制を許す。この一点が、最後まで重くのしかかった。日本も反撃を試みたが、世界の決勝トーナメントの守備は固く、決定機を最後までこじ開けることができない。0対1。日本の初めてのワールドカップは、ベスト16で幕を閉じた。
皮肉なことに、日本を破ったトルコはこの大会で3位に輝く。日本が屈した相手は、世界でも指折りの実力者だった。それでも、敗れた選手たちの表情には、「ここで終わりたくなかった」という強い悔しさがにじんでいた。ベスト16は確かに快挙だったが、その先の景色を見たいという渇望もまた、この大会が日本に残したものだった。
自国開催が残したもの
2002年の日本代表は、ベスト16という最高成績(当時)と、ワールドカップ初勝利を手にした。だがこの大会の本当の遺産は、順位表の数字だけではない。
全国に新しいスタジアムが生まれ、サッカーを観る文化が一気に広がった。子どもたちは中田や稲本に憧れ、各地のグラウンドでボールを追った。「日本でもワールドカップは戦える」という実感が、社会のすみずみに浸透していった。自国開催という一度きりの祝祭は、その後の日本サッカーを支える土壌を耕したのである。
しかし、祝祭は永遠には続かない。次のワールドカップは遠いドイツで開かれる。声援も、芝の感触も、すべてがアウェーになる舞台で、日本は自分たちの真価を問われることになる。物語は2006年、ドイツへと続く。
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