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ジョホールバルの歓喜と、フランスの洗礼 — 1998

1997年秋、マレーシアの夜空の下で日本は初めてワールドカップへの切符をつかんだ。だが翌夏のフランスで待っていたのは、世界の高さと厚みという名の洗礼だった。3戦全敗。それでも、この敗北こそが日本サッカーの本当の出発点になる。初出場の物語。

2026年6月22日

サッカーには、勝敗の数字には残らない「夜」がある。日本代表にとってそのひとつが、1997年11月16日、マレーシア・ジョホールバルの夜だった。アジア最終予選の最後の関門、イランとのプレーオフ。延長後半、岡野雅行が決めたゴールデンゴールで、日本は初めてワールドカップへの扉をこじ開けた。

  1. 1993年10月

    「ドーハの悲劇」。試合終了間際の失点でアメリカ大会出場を逃す。

  2. 1997年11月

    「ジョホールバルの歓喜」。イランを破り、初のワールドカップ出場を決める。

  3. 1998年6月

    フランス大会本大会。アルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと同組(グループH)。

悲劇から歓喜まで、その四年間

日本サッカーが「世界」を本気で意識し始めたのは、それほど昔のことではない。1993年にJリーグが開幕し、国内は熱狂に包まれた。だが同じ年の秋、カタール・ドーハで日本は残酷な現実を突きつけられる。アメリカ大会出場まであと一歩、ロスタイムの失点で夢が消えた「ドーハの悲劇」である。

そこから四年。日本は雪辱を期して1998年フランス大会の予選に挑んだ。だが道のりは平坦ではなかった。最終予選は混戦となり、監督交代という荒療治まで経て、ようやくたどり着いたのがイランとのプレーオフだった。延長戦、誰もが疲れ切ったその時間に、途中出場の岡野が放ったボールがネットを揺らす。半世紀以上にわたって世界の壁にはね返され続けてきた日本が、ついにその扉を開けた瞬間だった。

カズ落選という事件

歓喜のあとに、ひとつの大きな衝撃が待っていた。本大会のメンバー発表で、三浦知良——「キング・カズ」の名は読み上げられなかったのである。

カズは1990年代の日本サッカーを牽引した象徴的な存在だった。Jリーグ創成期のスター、代表のエース。予選でも戦い続けた選手が、最後の最後で23人から外された。岡田武史監督が下したこの非情な決断は、いまも語り継がれる代表史上の事件として残っている。世代交代の象徴であると同時に、勝利のためには感情を切り捨てねばならないという、世界基準の厳しさの最初の予告でもあった。

フランスの三連敗、そして初ゴール

迎えた本大会。日本が入ったグループHは、優勝候補の一角アルゼンチン、東欧の強豪クロアチア、そしてレゲエの国ジャマイカという顔ぶれだった。

初戦アルゼンチン戦は0対1。第2戦クロアチア戦も0対1。いずれも善戦とは言われたが、決定機を仕留めきれず、世界との「最後の一歩」の差を思い知らされる結果となった。クロアチアはこの大会で3位に輝く強豪であり、日本が相手取った相手の格を考えれば、競った内容そのものが小さな前進ではあった。だが結果は結果。2連敗で、日本のグループ突破はついえた。

第3戦ジャマイカ戦。消化試合になりかけたこの一戦で、ひとつだけ歴史が動く。後半、呂比須ワグナーの折り返しに中山雅史が反応し、ボールをゴールへ押し込んだ。日本代表のワールドカップにおける、記念すべき初ゴールである。試合は1対2で敗れ、日本は3戦全敗で大会を去ったが、中山のこの一点は、長いトンネルの先にともった小さな灯りだった。

負けて学んだ、本当の出発点

数字だけを見れば、1998年フランス大会の日本は「3戦全敗、1得点」。胸を張れる成績ではない。けれども日本サッカーにとって、この敗北の意味は小さくなかった。

世界の舞台に立ってみて初めて見えるものがある。球際の強さ、判断の速さ、90分間を通じた集中の質——テレビで見ていた「差」を、選手たちは自分の体で味わった。そして何より、ワールドカップという場所が、どれほど特別で、どれほど厳しいかを、国全体が共有した。ここで得た悔しさと手応えが、その後の日本代表を駆動するエンジンになっていく。

そして運命は、思いがけない速さで次の舞台を用意していた。次のワールドカップは、ほかでもない日本で開かれることが、すでに決まっていたのである。世界を見に行った日本のもとへ、今度は世界がやってくる。物語は2002年、日韓共催の夏へと続く。

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