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金の鎖が切れた日 — ブレトンウッズの終わり

第二次大戦の後、世界は金1オンス35ドルと結ばれたドルを軸に通貨をつなぎ直した。だがアメリカからの金流出が止まらず、1971年、ニクソン大統領は金とドルの交換を停止する。金の鎖が切れた日、黄金は固定された値段から解き放たれ、市場のなかへと歩み出していった。

2026年6月13日

前話で見たように、大恐慌の嵐は金本位制の硬直をさらけ出し、黄金を国家の金庫へと引き寄せていった。個人が金貨を握りしめる時代は終わり、金は政府と中央銀行のあいだだけで動く戦略物資へと姿を変える。やがて世界はもう一つの大戦へと突き進み、各国は荒廃した経済を立て直すために、改めて黄金に最後の役割を託すことになった。

第8話の舞台は、第二次世界大戦の終わりからおよそ三十年。世界は金とドルを軸にした新しい通貨の仕組みを築き、それが繁栄を支える。けれども、その仕組みはやがて自らの成功の重みに耐えきれなくなり、1971年のある夏の夜、突然に断ち切られた。金とドルを結んでいた鎖が切れたとき、黄金は固定された値段から解き放たれ、市場のなかを自由にさまよいはじめる。

ブレトンウッズで結び直された、金とドルの鎖

第二次世界大戦がまだ続いていた1944年7月、アメリカ北東部の小さな保養地ブレトンウッズに、連合国側のおよそ四十数か国の代表が集まった。戦後の世界経済をどう立て直すか。各国が金本位制を投げ捨て、通貨の切り下げ競争に走った1930年代の混乱を、二度とくり返さないための仕組みづくりが目的だった。

ここで合意された新しい体制の柱は、金とドルを結びつけることだった。アメリカは、金1オンスを35ドルと定め、外国の政府や中央銀行が持つドルを、いつでもこの値段で金に交換すると約束する。そして各国は、自国の通貨をドルに対して一定の比率で固定した。金にじかにつながるのはドルだけで、ほかの通貨はドルを通じて間接的に金とつながる――この仕組みは金為替本位制、あるいは金ドル本位制と呼ばれる。

なぜ、こうした形になったのだろうか。当時のアメリカは、世界の工業生産の多くを担い、世界の金準備の大半を自国に抱えていたとされる。圧倒的な経済力と金を背景にしたドルだからこそ、各国は安心して自国通貨をドルに結びつけられた。黄金はここでも、信頼の最後の裏づけとして据えられたのだ。ドルは「金と同じくらい確かなもの」とみなされ、世界の基軸通貨へとのぼりつめていった。

信頼がきしみ、金が流れ出す

戦後しばらく、この仕組みは見事に機能した。固定された為替相場のもとで貿易が広がり、西側の国々は高い成長をとげていく。世界中で取引の決済にドルが使われ、各国はドルを準備として手元にためこんだ。黄金に裏づけられたドルは、まさに世界経済の血液のように流れていったのだ。

ところが、その成功そのものが、やがて綻びの種になる。世界経済が大きくなるほど、取引に必要なドルの量も増えていった。各国がより多くのドルを手にするには、アメリカが貿易や対外支出を通じてドルを国外へ送り出しつづける必要がある。こうして世界にドルがあふれていく一方で、それを裏づけるアメリカの金の量は、そう簡単には増えなかった。

1960年代に入ると、アメリカの対外的な支払い超過が目立つようになる。ベトナム戦争の戦費や、国内政策にかかる費用もかさんでいったとされる。やがて、海外に出回るドルの総額が、アメリカが保有する金の値打ちを上回るのではないか、という疑念が広がった。「アメリカは、本当に約束どおり35ドルで金を払いきれるのか」――そう考えた国々は、手持ちのドルを金に換えようと動きはじめる。アメリカの金庫から、金が静かに、しかし着実に流れ出していった。

  1. 1944

    ブレトンウッズで戦後の通貨体制が合意され、金1オンスを35ドルと定める。

  2. 1960年代

    海外に出回るドルが増え、アメリカからの金流出への懸念が強まる。

  3. 1971

    8月、ニクソン大統領が金とドルの交換停止を発表。12月のスミソニアン協定で金は38ドルへ。

  4. 1973

    主要国が変動相場制へ移行し、固定相場の仕組みが事実上崩れる。

金とドルを結ぶ鎖は、ぴんと張りつめたまま、少しずつきしみはじめていた。主要国が協力して金の市場価格を抑えようとする努力もありましたが、世界にあふれたドルの量と限られた金の量との開きは、もはや小手先の工夫では埋めきれないところまで来ていた。

1971年、金の鎖が断ち切られる

緊張が頂点に達したのは1971年だった。この年の夏、アメリカからの金の流出はいよいよ深刻になる。伝えられるところでは、イギリスが多額のドルを金に換えるよう求めたことが、最後の一押しになったとされる。このまま各国がドルを金に換えつづければ、アメリカの金は底をついてしまう。固定された値段で金を払いつづけるという約束を、もはや守りきれない――そうアメリカは判断した。

1971年8月15日、ニクソン大統領はテレビ演説で、ドルと金の交換を停止すると突然に発表する。あわせて、輸入品への課徴金や物価・賃金の凍結など、一連の経済対策も打ち出された。世界に衝撃を与えたこの出来事は、のちにニクソン・ショック、あるいはドル・ショックと呼ばれることになる。1944年に結ばれた金とドルの鎖は、この夜、政治の決断によって断ち切られたのだ。

その後、いったんは仕組みを建て直そうとする試みもあった。同じ年の12月、ワシントンのスミソニアン博物館に主要国の蔵相が集まり、為替相場を組み直すスミソニアン協定が結ばれる。このとき金の公定価格は1オンス35ドルから38ドルへと引き上げられ、固定相場の枠組みをなんとか保とうとした。けれども、いったん切れた信頼の鎖は元には戻りなかった。協定は長くは続かず、1973年には日本やヨーロッパの主要国が相次いで変動相場制へと移っていく。通貨の価値を市場の取引にゆだねる、いまにつながる時代の幕開けだった。

値段から解き放たれた黄金

金とドルの鎖が切れたことで、黄金そのものの立場も大きく変わった。ブレトンウッズ体制のもとでは、金の値段は1オンス35ドルに固定され、長いあいだほとんど動きなかった。金は通貨を裏づける、いわば静止した錨だったのだ。ところが交換停止のあと、金は公定の値段という束縛から解き放たれ、市場の取引のなかで自由に値をつけられるようになっていく。

すると金の価格は、それまで抑えこまれていた力を一気に解き放つように動きはじめた。1970年代は、二度の石油危機や激しい物価上昇、国際的な緊張が重なった時代だった。紙のお金の価値が揺らぐなか、人々は確かな価値の置き場所を求めて金へと向かう。その結果、35ドルに据え置かれていた金の値段は、1980年初めには1オンスあたり数百ドルの水準にまで跳ね上がったとされる。固定の鎖がはずれた金は、市場のうねりのなかで激しく揺れ動く資産へと姿を変えたのだ。

ただし、この急騰はそのまま続いたわけではなかった。物価上昇が落ち着き、金利が引き上げられていくと、金の価格はピークから大きく下げていく。市場にゆだねられた黄金は、上がることもあれば下がることもある――そんな当たり前の値動きを、人々は新たに学んでいった。固定された値段に守られていた頃には見えなかった、市場のなかの金の素顔が、ここではじめて現れたのだ。

こうして黄金は、通貨を裏づける錨という役目をひとまず終え、市場で取引される一つの資産として歩み出した。けれども、金が人々の心からつかんで離さない力は、少しも衰えていなかった。むしろ、紙のお金が国家の信用だけで価値を保つ時代になったからこそ、その対極にある「錆びず、減らず、どの国の都合にも縛られない」金の存在感は、新しい意味を帯びはじめる。錨を解かれた黄金は、漂流するのではなく、次の役割へと向かっていく。通貨の錨を解かれた金は、新たな役割を見いだすのだ。

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