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長編への挑戦 — 東映動画の時代

1958年、日本初の本格的なカラー長編アニメ「白蛇伝」が公開された。東洋のディズニーを掲げて設立された東映動画には、若き才能が集った。のちにアニメ界を背負う人々がここで腕を磨いた、長編アニメ夜明けの物語。

2026年6月13日

戦争が終わり、焼け跡のなかから人々が立ち上がろうとしていた頃、日本のアニメーションはまだ数分の短編にとどまっていた。海の向こうのアメリカでは、ディズニーが色鮮やかな長編アニメで世界中の観客を魅了している。あの夢のような映画を、自分たちの手で作れないだろうか——。そんな大きな志を抱いた人々が、一つの会社に集まっていった。それが、のちに日本アニメの礎となる東映動画である。短い手描きの実験から、一本の映画として観客を物語の世界へ連れていく長編アニメへ。この章は、その大きな飛躍に挑んだ人々の物語である。

  1. 1956

    東映が、アニメーション映画の将来性を見すえて東映動画(現・東映アニメーション)を設立する。

  2. 1958

    10月、日本初の本格的なカラー長編アニメーション「白蛇伝」が公開される。

  3. 1959

    東映動画が演出助手の公募を行い、のちに名匠となる若い才能が集まり始める。

  4. 1963

    東映動画が「わんぱく王子の大蛇退治」など、意欲的な長編を次々と世に送り出していく。

  5. 1968

    「太陽の王子 ホルスの大冒険」が公開。若い作り手たちの挑戦が形になり、後世に大きな影響を残す。

東洋のディズニーを目指して

戦後の日本で、映画は人々の大きな楽しみだった。数ある映画会社のなかでも東映は、アニメーションに将来の可能性を見いだする。1956年、東映はアニメーション制作のための会社、東映動画を設立した。掲げた目標は、東洋のディズニーになること。アメリカのディズニーが作るような、色彩ゆたかで物語性の高い長編アニメを、日本でも生み出そうという壮大な夢だった。

当時の日本に、長編アニメを作った経験のある人はほとんどいなかった。短編すら限られた人しか手がけていない時代に、何十分もの作品を、しかも全編カラーで仕上げるというのは、途方もない挑戦である。一本の長編には、気が遠くなるほど大量の絵が必要になる。背景を描く人、原画を描く人、その間をつなぐ動画を描く人——多くの人手と、緻密な分業の仕組みが欠かせない。東映動画は、そうした制作の体制を一から築き上げていった。

この会社は、単に作品を作る場であるだけでなく、人を育てる学校のような役割も果たすことになる。ベテランの作り手が新人を指導し、現場で技術が受け継がれていく。日本のアニメーションが産業として立ち上がっていく、その土台がここで形づくられたのだ。

「白蛇伝」、色彩の夢

そして1958年10月、ついにその夢が形になる。日本初の本格的なカラー長編アニメーション映画「白蛇伝」の公開である。中国の古い伝説を題材に、白蛇の化身である娘と青年との、時を越えた恋を描いた物語だった。

この一本にかけられた労力は、桁外れのものだった。完成までに費やされた動画の枚数は数万枚にのぼり、原画と合わせれば膨大な手作業の積み重ねである。声の出演には、当時人気の俳優たちが起用された。約二年半をかけて準備を進め、実際の作画にも長い月日を要したと伝えられる。すべての絵を手で描き、一枚ずつ色を塗り、それを連続した動きにまとめあげる——その途方もない作業の果てに、観客は色鮮やかに動く物語と出会ったのだ。

「白蛇伝」は、公開に先立って海外の映画祭にも出品され、特別賞を受けたと伝えられる。日本のアニメーションが、ようやく一本の映画として、国の内外で評価される段階に達した瞬間だった。けれども、この作品の本当の意義は、興行や受賞だけにとどまらない。スクリーンに映る色彩ゆたかな世界は、まだ子どもだった多くの未来の作り手たちの心に、消えない火を灯すことになるのだ。

才能たちが集う場所

「白蛇伝」をきっかけに、あるいは東映動画という新しい現場に憧れて、若い才能が次々と集まってきた。1959年、東映動画は演出助手を広く公募する。そこには、のちに日本のアニメーションを背負っていく人々の姿があった。

たとえば、のちに数々の名作を手がける一人の青年は、学生時代に「白蛇伝」を映画館で観て、アニメーターを志したと語っている。また、別の若者は東映動画に入社し、演出助手として現場で経験を積んでいった。彼らはやがて、子ども向けにとどまらない、深い物語性を持ったアニメーションを目指すようになる。その挑戦のひとつの結晶が、1968年に公開された「太陽の王子 ホルスの大冒険」だった。長い制作期間と多くの困難を抱えたこの作品は、興行の面では苦戦したと伝えられるが、表現の野心と作り込みの深さで、後世に大きな影響を残した。

ここには、光だけでなく影もあった。アニメ制作は膨大な手作業を必要とし、現場は決して楽なものではない。東映動画では、待遇や働き方をめぐって労働組合の活動も行われ、作り手たちが声を上げる場面もあったと報じられている。理想を追う情熱と、それを支える現場の厳しさ——この二つの緊張は、のちの時代まで日本のアニメがずっと抱えていく宿題となっていく。けれど、だからこそこの時期に育った才能たちは、現場のきしみを知る者として、次の時代を切りひらいていくことになるのだ。

こうして、短い手描きの実験から始まった日本のアニメーションは、東映動画という現場を得て、一本の長編映画を作り上げる力をつけた。色彩ゆたかな物語が、観客を別世界へと連れていく。それは確かに、大きな到達点だった。けれど、人々がアニメと出会う場所は、やがて映画館だけではなくなっていく。家庭の片隅に置かれた、小さな箱の中へ——。次の章では、テレビという新しい舞台で起きた革命を見ていきよう。

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