ブランドという発明 — 大量生産と消費社会
工場が同じ品を大量に生み出す時代、商人たちは「名前」と「印」で自分の品を見分けさせようとした。クエーカー・オーツやアイボリー石鹸の商標、JWTなど米代理店の台頭、そして広告が需要そのものを作り始めた20世紀初頭。ブランドという発明の物語をたどる第2話。
2026年6月12日
スーパーの棚の前で、私たちはしばしば中身ではなく「名前」で手を伸ばする。同じ小麦粉でも、見慣れたパッケージのほうを選ぶ。同じ石鹸でも、聞いたことのある名のほうに安心する。この、商品そのものではなく、その名やイメージへ信頼や愛着を寄せる感覚を、私たちは「ブランド」と呼ぶ。けれど、これは人間に最初から備わっていた感情ではなかった。工場が同じ品を限りなく大量に生み出すようになった19世紀末から20世紀初頭、商人たちが必死に編み出した工夫の積み重ねが、いつしか「ブランド」という発明を生んだのだ。
- 1851
P&Gのものとされる「月と星」の印が、星印ろうそくの箱に描かれ始めたと伝えられ、初期の商標の例として語られる。
- 1870
米国で連邦の商標法が初めて成立。商標を法で守る仕組みづくりが始まる(のち違憲判断を経て整備が進む)。
- 1879
P&Gがアイボリー石鹸を売り出す。純度を訴える広告とともに広く知られるブランドへ育ったとされる。
- 1877
クエーカー・オーツの名と「クエーカー教徒の男」の図柄が商標登録されたとされ、朝食用シリアル初の商標と語られる。
- 1916
スタンリー・リーザーがJWTを買収。代理店が紙面の仲介から総合的な広告制作へと役割を広げていく。
工場が、すべてを同じものにした
19世紀後半、産業革命の波が暮らしの隅々まで届くと、物のつくられ方が根本から変わった。それまで石鹸や穀物は、量り売りや樽詰めで、近所の店からまとまりなく買うのが当たり前だった。誰がつくったのかも、品質が一定なのかも、はっきりしないことが多かったのだ。ところが工場が登場すると、同じ品が、同じ形で、際限なく生み出されるようになる。供給はかつてないほど豊かになった。
すると、新しい悩みが生まれる。どの工場の品も似たような姿をしているなら、客はどうやって自分の品を選んでくれるのか。あふれる供給のなかで、自社の品を他社のものと見分けさせ、繰り返し買ってもらう——この課題への答えとして、商人たちは「名前」と「印」に望みを託した。樽から取り出される無名の塊ではなく、箱に名と絵柄が刷られた、顔のある商品。これがブランドの出発点だった。
象徴的なのが、米国の生活用品大手P&Gである。同社では古く1851年頃、星印ろうそくの箱に「月と星」の印が描かれるようになったと伝えられる。文字を読めない人も多かった時代、この印は「これはあの会社の品だ」と一目で伝える役割を果たしたとされる。1879年に売り出されたアイボリー石鹸は、その純度を前面に押し出す広告とともに知られ、初期の代表的なブランドの一つに数えられる。名と印が、品質の約束として働き始めたのだ。
名前を守る — 商標という盾
名前や印に価値が宿るようになると、当然それを真似る者も現れる。よく売れているブランドの印にそっくりな印を使えば、まぎれて客を奪えるかもしれない——そう考える業者が出てくるのは自然なことだった。実際、P&Gは自社の印に酷似した印を使った同業者と争ったと伝えられ、こうした模倣との攻防が、ブランドを「法で守る」という発想を後押ししていく。
米国では1870年に連邦の商標法が初めて成立しましたが、のちに違憲とされるなど、制度が固まるまでには曲折があった。20世紀半ばの1946年に成立したランハム法によって、ようやく近代的な商標保護の枠組みが整えられたとされる。法の整備には長い時間がかかりましたが、その底には一貫して、「名前は財産になりうる」という認識の高まりがあった。
ブランド化の動きは、食品の世界でも鮮やかに進んだ。クエーカー・オーツは、1877年に「クエーカー教徒の男」の図柄を商標としたとされ、朝食用シリアルとして初めて商標登録された例としてしばしば語られる。箱にレシピを刷り込むなど、パッケージそのものを宣伝の舞台にする工夫も重ねられた。量り売りの穀物が、名と顔を持つ「商品」へと姿を変えていく。ブランドは、こうして人々の食卓にまで入り込んでいったのだ。
広告が、需要を「つくる」時代へ
ブランドが力を持つにつれ、それを世に広める広告の役割も大きく変わった。かつての広告は、すでにある需要に向けて「ここに品がありますよ」と知らせるものだった。ところが大量生産の時代には、つくった品をすべて売りさばくために、まだ存在しない需要そのものを呼び起こす必要が出てくる。広告は、知らせる道具から、欲しいと思わせる道具へと、その性格を移していったのだ。
この変化を担ったのが、力をつけていく広告代理店だった。たとえば、19世紀に創業した米国の代理店J・ウォルター・トンプソン(JWT)は、当初は新聞や雑誌の紙面を仲介する商売から始まったとされる。それが1916年、スタンリー・リーザーが同社を買収した頃から、文案づくりから市場の調査まで手がける総合的な広告会社へと脱皮していったと伝えられる。同社は広告の制作にとどまらず、人々の暮らしや好みを調べ、商品をどう語れば心が動くかを探る取り組みでも知られた。
こうして20世紀の初め、工場の大量生産と、ブランドという発明と、需要をつくり出す広告とが、互いに支え合う一つの仕組みをかたちづくった。物が豊かにあふれ、人々がその名やイメージに憧れて財布を開く——私たちがいまも生きる消費社会の骨組みは、この時代に据えられたのだ。そして商人たちは、ここからさらに一歩を踏み出する。人の心はどう動くのか、どうすれば確実に動かせるのか。広告は、人の内面そのものへと手を伸ばし、「科学」を名乗り始めるのだ。
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