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広告の誕生 — 新聞と最初の代理人

19世紀、新聞という新しいメディアが広がるとともに、店と新聞のあいだに立つ「代理人」という不思議な職業が生まれた。米国のヴォルニー・パーマー、開放契約を編み出したエイヤー、そして江戸の引札から始まる日本の道のり。広告と広告代理店の起源をたどる第1話。

2026年6月12日

朝、スマートフォンを開けば、私たちは無数の広告に取り囲まれている。検索結果のすきま、動画の前後、ニュースの行間。あまりに当たり前すぎて、もはや風景の一部になっているこの「広告」というものには、はっきりとした始まりの時代がある。それは、新聞という新しいメディアが社会を覆い始めた19世紀のことだった。物を売りたい人と、それを世に知らせる紙面。この二つのあいだに、ひとりの「代理人」が立った瞬間から、広告は職業となり、やがて巨大な産業へと姿を変えていく。広告代理店の物語は、その小さな仲立ちから始まった。

  1. 1683

    江戸・日本橋の呉服商、三井越後屋が開業の折に一枚物の摺物を配ったと伝えられ、印刷された引札の古い例として知られる。

  2. 1841

    米フィラデルフィアでヴォルニー・パーマーが新聞広告の取次業を始める。米国最初期の広告代理店とされる。

  3. 1869

    フィラデルフィアでN・W・エイヤー・アンド・サンが創業。のちに業界最大手へ成長していく。

  4. 1871

    日本初の日刊邦字紙とされる横浜毎日新聞が創刊され、新聞に広告が載る時代の足がかりとなる。

  5. 1875

    エイヤーが「開放契約」を導入したとされ、代理店が広告主の側に立つ転機になったと評価される。

新聞が、広告の「器」になった

広告そのものは、人類とともに古くからあった。市場の呼び声、店先の看板、壁の貼り紙。けれど、それが産業と呼べる規模へ膨らんでいくには、多くの人に同じ情報を一度に届ける「器」が必要だった。19世紀に各地で部数を伸ばした新聞は、まさにその器になっていく。読者が増えれば、紙面の片隅に商品を載せたいと考える商人も増える——新聞と広告は、互いを太らせ合う関係を結んでいったのだ。

ところが、初期の広告には大きな不便があった。物を売りたい商人は、自分の広告をどの新聞に、いくらで載せればよいのか、ほとんど見当がつかない。新聞は各地にばらばらに存在し、料金も体裁も統一されていなかった。遠くの町の新聞に広告を出そうとすれば、その新聞社と一つひとつ交渉しなければならない。この手間こそが、新しい職業を呼び寄せる隙間になった。

ここに目をつけたのが、新聞と広告主のあいだに立つ「広告代理人」である。彼らは複数の新聞の紙面をあらかじめ押さえ、広告を出したい商人へ取り次ぐことで手数料を得た。広告という行為が、商人個人の思いつきから、専門家が担う仕事へと切り替わっていく。その最初の担い手たちが、のちの広告代理店の祖先にあたる。

ヴォルニー・パーマーと、エイヤーの「開放契約」

米国で最初期の広告代理人として広く知られているのが、ヴォルニー・パーマーである。新聞業に縁のある家に育った彼は、1841年ごろフィラデルフィアで広告の取次を始め、各地の新聞の紙面を扱う仲介業を築いたとされる。商人に代わって、どの新聞にいくらで載せるかを差配する——パーマーの仕事は、まさに「代理店」という言葉が指す働きそのものだった。米国における広告という職業の出発点に、彼の名はしばしば置かれる。

ただし、この時代の代理人の立場は、いまの広告会社とはずいぶん違った。彼らはまず新聞から紙面をできるだけ安く買い、それを広告主にできるだけ高く売る。つまり立っていたのは、広告主の側というより、自分の利ざやの側だった。広告主から見れば、料金がどう決まっているのか分かりにくく、信頼を置きにくい相手でもあったのだ。

その立ち位置に一つの答えを示したとされるのが、1869年にフィラデルフィアで創業したN・W・エイヤー・アンド・サンである。同社は1875年ごろ、「開放契約」と呼ばれる仕組みを取り入れたと伝えられる。これは、代理店の取り分をあらかじめ明らかにしたうえで、一定の期間、広告主のために働くことを約束する契約だったとされる。仕入れ値を隠して稼ぐのではなく、広告主の代理人として動く——この転換は、代理店という職業の性格を変えた出来事として評価されている。もっとも、こうした評価には諸説もあり、当時の慣行が一夜にして塗り替わったわけではない。それでも、代理店が「誰の側に立つのか」を問い直す流れが、この頃から確かに生まれていったのだ。

引札から新聞へ — 日本の歩み

海の向こう、日本にも広告の長い歴史がある。とりわけ知られているのが、江戸時代に発達した「引札」である。「引く」という言葉には古くから「配る」という意味があったとされ、引札とは商いの宣伝のために配る摺物のことだった。一説には、江戸前期の1683年、日本橋に店を構えた呉服商の三井越後屋が、開業に合わせて一枚物の摺物を配ったと伝えられ、印刷された宣伝の古い例として語られる。

文化・文政の頃になると、庶民の購買力が高まるとともに、料理屋から化粧品、薬、小間物まで、ありとあらゆる商品の引札が摺られるようになった。明治に入ると、色鮮やかな絵柄を中心にした引札が正月に配られ、大量印刷の技術が広まるなかで隆盛を迎えたとされる。商人が客の心をつかもうと趣向を凝らすその姿は、文化や流行とも結びつき、いまに残る引札は当時の暮らしを映す資料にもなっている。

そして幕末から明治にかけて、日本にも新聞という新しいメディアが芽生える。1871年には、日本初の日刊邦字紙とされる横浜毎日新聞が創刊され、新聞に商品の情報が載る時代の足がかりとなった。「広告」という言葉そのものが、この明治初期の新聞のなかで少しずつ一般に広まっていったとも言われる。江戸が育てた引札の文化と、西洋から入ってきた新聞という器。二つが出会ったところに、日本の近代広告は静かに立ち上がっていったのだ。

こうして19世紀、新聞という器と、そのあいだに立つ代理人によって、広告は職業として産声をあげた。けれど、この時代の広告が売っていたのは、まだ目の前の「商品」そのものだった。やがて時代が進むと、人々は商品それ自体ではなく、その名前やイメージ——すなわち「ブランド」に心を寄せ、対価を払うようになっていく。大量に物がつくられ、大量に消費される新しい社会の足音が、すぐそこまで近づいていた。

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