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なぜ日本は戦争への道を歩んだのか — 近代化の光と影

幕末、押し寄せる列強を前に日本は強烈な危機感に駆られた。不平等条約という屈辱を出発点に、富国強兵へと突き進んだ近代化。その光の裏で、軍備優先の発想と「追いつかれる前に追いつく」焦りが、後の戦争への構造を静かに準備していった過程を読み解く。

2026年6月12日

「日本はなぜ、あの戦争へ突き進んでいったのか」。この問いに答えようとするとき、私たちはつい昭和の十数年だけを切り取って眺めがちである。けれど、戦争への道のりは、もっと古い場所から始まっていた。黒船が来航し、列強に脅かされた幕末の危機感。それを出発点に、日本は猛烈な勢いで近代国家へと自らを作り変えていく。その過程は、たしかに目覚ましい成功の物語だった。しかし同時に、後の暴走を準備してしまう構造も、この近代化の只中に静かに埋め込まれていったのだ。第1話では、その「光」と「影」がどこで分かれていたのかを見ていく。

  1. 1858

    日米修好通商条約を締結。治外法権を認め、関税自主権を持たない不平等条約として、近代日本の出発点となった。

  2. 1871〜73

    岩倉使節団が米欧十二か国を歴訪。条約改正は実らなかったが、近代国家の制度と産業を間近に学んで帰国した。

  3. 1873

    徴兵令が公布され、国民から兵を集める近代的な軍隊の建設が始まる。

  4. 1889

    大日本帝国憲法が発布。軍を動かす統帥権が天皇に直属する仕組みが定められた。

屈辱から始まった近代化

近代日本の出発点には、ひとつの屈辱があった。不平等条約である。

1858年、江戸幕府はアメリカとのあいだに日米修好通商条約を結んだ。続いてオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結ぶ。一見すると国際社会への仲間入りのようであるが、その中身は日本にとって大きく不利なものだった。中心となる問題は二つ。ひとつは治外法権で、日本国内で罪を犯した外国人を、日本の法律で裁けないという取り決めである。もうひとつは関税自主権の喪失で、輸入品にかける関税を日本が自由に決められず、相手国との協定で決めるしかなかった。

この二つが何を意味したか。治外法権は「日本は対等な近代国家として扱われていない」という象徴であり、関税自主権の喪失は、安い外国製品が流れ込んでも日本が自国の産業を守れない、という現実的な打撃だった。幕末から明治の指導者たちにとって、この条約は国家の主権そのものが値踏みされている屈辱だったのだ。だからこそ、近代日本の対外政策は長らく「条約改正」を最大の悲願として動いていくことになる。

ここで押さえておきたいのは、近代化が純粋な向上心からだけ始まったのではない、という点である。むしろその根にあったのは、強い列強に呑み込まれるのではないかという恐れと、それに「追いつかなければ生き残れない」という切迫した焦りだった。この恐れと焦りは、近代化を加速させる原動力であると同時に、後々まで日本の意思決定に独特の影を落としていく。

富国強兵 — 光に満ちた近代化

危機感を出発点とした明治政府は、驚くべき速さで国を作り変えていった。その方向を一言で表すのが、富国強兵という標語である。

1871年から73年にかけて、政府は岩倉具視を団長とする大規模な使節団を欧米へ送り出する。岩倉使節団は当初、不平等条約の改正交渉も目的のひとつとしていましたが、これは実りなかった。一方で、彼らが持ち帰ったものは大きかった。近代国家がどのような制度・産業・軍隊で成り立っているのかを、自分たちの目で確かめてきたのだ。帰国した指導者たちは、その学びを国づくりに注ぎ込んでいく。

国内では、官営工場をつくって産業を育てる殖産興業が進められた。1873年には徴兵令が公布され、武士だけでなく国民から広く兵を集める近代的な軍隊が築かれていく。鉄道が敷かれ、郵便や学校の制度が整えられ、人々の暮らしは急速に変わっていった。そして1889年には大日本帝国憲法が発布され、アジアでいち早く近代的な立憲国家の体裁を整える。短期間でここまで国の形を変えた例は世界的にも珍しく、これはまぎれもなく近代化の「光」の部分だった。

ただし、忘れてはならないことがある。富国強兵の「強兵」、つまり軍備の増強は、最初から国家の中心的な目標として据えられていた。強い軍隊を持つことは、列強に対等とみなされ、不平等条約をはね返すための手段だと考えられていたのだ。近代化と軍備拡張は、別々のものではなく、同じひとつの目標の両輪として走り出した。ここに、後の影の芽が潜んでいた。

制度に埋め込まれた「影」

近代化の光が強ければ強いほど、その裏に伸びる影も濃くなる。日本の場合、その影は人々の野心というより、むしろ制度の設計のなかに埋め込まれていた。

象徴的なのが、1889年の大日本帝国憲法で定められた統帥権の仕組みである。軍隊を動かす権限である統帥権は、内閣ではなく天皇に直属するものとされた。建前としては天皇が握る権限であるが、実際にはそれを補佐する軍の機関が大きな力を持ち、予算や外交を担う政府がそこに口を出しにくい構造になっていた。これは、軍を政治の党派争いから切り離して独立させようという発想から生まれたものだった。意図そのものは必ずしも悪いものではない。

けれども、この「政府と軍の二元構造」は、運用しだいで危うさに裏返る。軍が独自の判断で動いたとき、それを政治の側から押しとどめる回路が弱い。誰もが「自分の権限の外だ」と考え、結果として全体に責任を負う中心がどこにもなくなる。平時には目立たないこの欠陥は、後の満洲事変のような危機の場面で初めて、大きな災いとして表面化していく。第3話で詳しく見るこの構造の穴は、実はこの近代化のごく初期に、すでに敷かれていたのだ。

もうひとつの影は、人々の心のなかにあった。「追いつき追い越せ」の近代化は、いつしか「強くなった日本」への誇りと、周辺地域を自国の安全のために確保したいという発想を育てていく。生き残るための強国化が、やがて外へ向かって膨張していく欲求と、滑らかに地続きになっていった。光と影は別々の物語ではなく、同じ近代化という一本の道の表と裏だったのだ。

焦りという名の、見えない舵

こうして見てくると、戦争への道は、ある日突然に始まったのではないことがわかる。その根は、近代日本が背負って出発した恐れと焦りにあった。

列強に脅かされ、屈辱的な条約を押しつけられた国が、必死で追いつこうとする。その努力は称賛に値すが、「追いつかなければ滅ぼされる」という強迫的な感覚は、ときに冷静な計算よりも面子や勢いを優先させる心理を育てる。強くあらねばならない、弱さを見せてはならない、という発想は、外交を交渉ではなく対決として捉えがちにする。そしてその発想を、軍が政治から半ば独立して暴走しうる制度が、技術的に下支えしていた。

近代化そのものが間違いだったわけではない。問題は、その推進力だった恐れと焦りが、どこかで自制の感覚を上回ったとき、国全体を引き返しにくい方向へ押し流していったことにある。日本という国は、自らを守るために強くなろうとし、強くなる過程で、いつしか守りの論理を膨張の論理へと滑らせていった——その分岐点を、私たちはこの近代化の只中に見いだすことができる。

そして、この恐れと焦りが、ついに目に見える成果として結実する瞬間が訪れる。大国ロシアを相手にした、近代日本初の本格的な対外戦争での勝利である。けれど、その輝かしい勝利こそが、思いもよらない副作用を国の内側に残していくことになる。次回は、その日露戦争が日本に何をもたらし、何を奪ったのかを追っていく。

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