二つの巨人 — 中国とインドの台頭
眠れる二つの巨人が動きだした。鄧小平の改革開放、世界の工場となった中国、危機の中から始まったインドの経済自由化、そしてITが切り開いた新しい道。人口大国の台頭が「アジアの世紀」という言葉を呼び寄せていく過程を、光と影の両面でたどる。
2026年6月13日
前回、私たちは戦後のアジアが、焼け跡や貧しさから立ち上がり、輸出を軸とした工業化で「奇跡」と呼ばれる成長を遂げていく様子を見た。日本が先頭を走り、韓国・台湾・香港・シンガポールが続き、東アジアは世界の成長の中心の一つになっていった。けれども、その物語の主役の座には、まだ姿を現していない二つの存在があった。
世界でもっとも人口の多い国、中国とインドである。どちらも長い歴史を持ち、かつては世界経済の中心だった大国でありながら、二十世紀の大半を、貧しさと内向きの体制のなかで過ごしてきた。「眠れる獅子」とも「眠れる巨人」とも呼ばれたこの二つの国が、二十世紀の終わりに相次いで目を覚まする。その目覚めが、世界の重心そのものを動かしはじめた。この章では、二つの巨人が動きだした過程を、その勢いと、置き去りにされた影の両面からたどる。
鄧小平が開いた扉
一九七六年に毛沢東が世を去ったあと、中国は大きな転換点を迎える。長く続いた政治運動のなかで疲弊した経済を、どう立て直すのか。その舵を握ったのが、鄧小平だった。
一九七八年十二月に開かれた中国共産党の重要な会議(第十一期中央委員会第三回全体会議、いわゆる三中全会)を画期として、中国は「改革開放」と呼ばれる路線へと大きく舵を切ったとされる。国内では、農村で生産を請け負わせる仕組みを取り入れ、人々が働いた分だけ報われるようにしていった。対外的には、外国の資本や技術を受け入れるために、沿岸部に経済特区を設ける。深圳をはじめとするこれらの地域は、外資を呼び込む実験場となり、やがて目覚ましい発展を遂げていった。
改革開放は、すぐに国全体を豊かにしたわけではない。沿岸部と内陸部、都市と農村のあいだに、大きな差が生まれていった。豊かになる地域と、取り残される地域。その落差は、成長の影として、いまも中国社会が抱える課題であり続けている。
世界の工場へ
扉を開いた中国に、世界中の企業が引き寄せられていった。膨大な働き手と、相対的に低い人件費。そこに外国の資本と技術が結びつき、中国は世界中の製品を生産する拠点へと変わっていく。「世界の工場」という呼び名が、この国を語る言葉になった。
その流れを決定づけたのが、二〇〇一年の世界貿易機関(WTO)への加盟である。世界の貿易ルールの中に正式に組み込まれたことで、中国は輸出を大きく伸ばし、外国からの投資をいっそう呼び込んでいった。私たちが日々手にする衣類や電化製品、おもちゃの多くに「メイド・イン・チャイナ」の文字が見られるようになったのは、この時期からのことである。
- 1978年
中国共産党の三中全会を画期に、鄧小平の主導で改革開放路線が始まったとされる。
- 1980年前後
深圳などに経済特区が設けられ、外国資本を受け入れる実験が進む。
- 1991年
インドが経済危機を機に、新経済政策による経済自由化へと舵を切る。
- 2001年
中国が世界貿易機関(WTO)に加盟し、世界の工場としての地位を固めていく。
- 2010年ごろ
中国の国内総生産が日本を上回り、世界第二位の経済規模になったと報じられる。
成長の速さは、目を見張るものだった。二〇一〇年ごろには、中国の経済規模が日本を上回り、世界第二位になったと広く報じられる。かつて貧しい農業国と見られていた国が、わずか三十年あまりで世界経済の主要な担い手の一つになった——その変化の大きさは、世界の見方を根本から変えた。
インド、危機からの転換
中国が世界の工場へと駆け上がっていた頃、もう一人の巨人もまた、長い眠りから動きだそうとしていた。インドである。
独立後のインドは、国家が経済を強く管理し、産業には細かい許認可が必要とされる仕組みを長く続けてきた。この、いわば許認可に縛られた体制は、しばしば「ライセンス・ラージ(許認可支配)」と呼ばれ、産業の自由な成長を妨げたとも評価されている。転機は、皮肉にも危機の形でやってきた。一九九一年、インドは深刻な外貨不足に陥り、支払い能力が危ぶまれる事態に直面する。
この危機を受けて、ナラシンハ・ラオ政権のもとで財務相を務めたマンモハン・シンらが中心となり、インドは新経済政策と呼ばれる大胆な改革に踏み出したとされる。産業の許認可制度を大幅に撤廃し、外国からの投資への規制を緩め、市場の力をより広く取り入れていった。閉ざされていた経済が、世界へと開かれた瞬間だった。
ITが切り開いた道
インドの成長には、中国とは異なる特徴があった。製造業を軸に伸びた中国に対し、インドの成長を牽引したのは、情報技術(IT)に代表されるサービス産業だったとされる。
その背景には、インドが独立後から理数系の高等教育に力を注ぎ、インド工科大学(IIT)をはじめとする教育機関を整えてきたことがあると指摘される。豊富な技術者と、英語が広く使われる環境。これらが結びつき、ソフトウェア開発や、海外企業の業務を請け負うサービスの拠点として、インドは世界の注目を集めていった。バンガロール(現ベンガルール)のような都市が、世界のIT産業の一角を担うようになっていく。
もっとも、二つの巨人の歩みは、輝かしいことばかりではなかった。中国でもインドでも、成長の恩恵は均等には行きわたらず、富める者と貧しい者の差は広がったとされる。環境への負荷、地域や階層のあいだの分断、政治のあり方をめぐる緊張。光が強くなるほど、その影もまた濃くなっていった。
それでも、二つの巨人が動きだしたという事実は、世界の地図を塗り替えるほどの重みを持っていた。長く世界の周縁に置かれてきたアジアが、もう一度、世界経済の中心へと戻ろうとしている。その予感が、現実の数字となって表れはじめる。世界の重心は、再びアジアへと戻りつつあった。
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