海外組の時代 — 中田英寿から世界へ
1998年夏、ひとりの若者が単身でイタリアへ渡った。中田英寿が切り拓いた道を、本田圭佑や香川真司ら2010年代の海外組が当たり前の景色に変え、久保建英や三笘薫ら現代のスターがさらに押し広げた。代表のほぼ全員が欧州組という現在地までを描く、三世代にわたる海外組の時代の物語。
2026年6月11日
1998年の夏、ひとりの若者が、たった一人で海を渡った。21歳の中田英寿。フランス・ワールドカップで世界デビューを果たしたばかりの背番号7が、ヨーロッパ・サッカーの本場、イタリア・セリエAのペルージャへと移籍したのだ。
それは、日本サッカーの歴史において、静かに、しかし決定的に潮目が変わった瞬間だった。これまで日本の選手にとって「世界」とは、4年に一度の大会や、ときおり行われる親善試合の中で、遠くから垣間見るものだった。ところが中田は、その世界の真ん中へ、自分の生活ごと飛び込んでいったのだ。毎週末、世界最高峰のリーグで、世界トップの選手たちを相手に戦う――その日常を、日本人が初めて手にしようとしていた。
単身、セリエAへ
中田が選んだイタリアは、当時、世界中の名手が集う最も激しいリーグのひとつだった。守備の組織は世界一とも言われ、屈強なディフェンダーが容赦なく当たってくる。アジアから来た細身の若者が、その荒波の中で生き残れるのか。日本人がそこで通用するのか――多くの人が半信半疑だったその問いに、中田はデビュー戦でいきなり答えを叩きつける。
1998年9月、ペルージャの開幕戦の相手は、強豪ユヴェントス。中田は移籍後初ゴールを含む2得点を挙げ、イタリアの名門を相手に鮮烈な印象を残した。地元の主要紙からも異例の高評価を受け、無名の極東からやってきた若者は、一夜にしてセリエAの話題をさらったのだ。
ペルージャで結果を残した中田は、その後セリエAの階段を駆け上がっていく。シーズン途中にローマへ移籍すると、リーグ優勝(スクデット)の歓喜も味わった。さらに2001年には、当時アジアの選手としては史上最高額とされる移籍金でパルマへと移っていく。極東から来た若者が、ヨーロッパ・サッカーの市場で「高く評価される商品」になった――それ自体が、日本サッカーの価値が世界に認められた証だった。
中田英寿は2006年のドイツ・ワールドカップを最後に、まだ29歳の若さで現役を退く。鮮烈な登場から引退まで、彼は一貫して「日本人でも世界で戦える」という事実を、言葉ではなく結果で証明し続けた。けれど中田が本当に遺したものは、自分一人の足跡ではなかった。彼が一人でこじ開けた扉の先に、続く者たちが雪崩を打って入ってくる――その大きな流れこそが、中田の最大の置き土産だったのだ。
扉を「当たり前」に変えた世代 — 本田と香川
中田が切り拓いた道を、堂々と歩き、そして広げてみせたのが、2010年代の海外組だった。その象徴が本田圭佑である。
名古屋グランパスで頭角を現した本田は、2008年、オランダのVVVフェンロへと渡る。決して華やかな移籍ではなかった。けれど本田は、自らの足で次のステップを切り拓いていく。2010年にはロシアの強豪CSKAモスクワへ。当時の日本人にとって決して身近ではなかったロシア・リーグで、チャンピオンズリーグの舞台にも立ち、確かな実績を積み上げていったのだ。
そして2014年1月、ついに彼はイタリアの名門ACミランへ加入する。本田がそこで選んだ背番号は、エースの象徴である10番だった。世界の歴史的名手が背負ってきたその番号を、本田は自ら望んで身にまとった。「ビッグマウス」と呼ばれた強気な発言も、彼にとっては単なる虚勢ではなく、自分を高みへ追い込むための覚悟の宣言だった。誰かに引き上げてもらうのではなく、自分で自分の価値を語り、移籍を自らプロデュースして切り拓いていく――その姿は、海外移籍のあり方そのものを変えた。
同じ世代には、もう一人、忘れてはならない選手がう。セレッソ大阪で育った香川真司である。2010年にドイツのドルトムントへ移籍した香川は、ブンデスリーガで衝撃を与えた。チームの中心として攻撃を牽引し、2010-11、2011-12シーズンのリーグ連覇の立役者の一人となったのだ。アジアから来た選手が、欧州の優勝争いの中心で輝く――それは一昔前には想像もできなかった光景だった。
その活躍は世界最高峰のクラブをも動かする。2012年、香川は日本人として初めてマンチェスター・ユナイテッドへ移籍した。世界屈指のビッグクラブの一員としてプレミアリーグ優勝に貢献し、アジア人初とされるプレミアでのハットトリックも記録する。中田が「日本人でも通用する」ことを示したとすれば、香川は「日本人がビッグクラブの中心で輝ける」ことを示したのだ。
- 2008
本田圭佑、名古屋グランパスからオランダのVVVフェンロへ移籍。欧州挑戦の第一歩。
- 2010
本田がCSKAモスクワへ。香川真司はドルトムントへ移籍し、ブンデスリーガ連覇に貢献していく。
- 2011
長友佑都、チェゼーナを経てインテルへ。欧州主要リーグへ日本人の活躍の場が一気に広がる。
- 2012
香川真司、日本人として初めてマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。
- 2014
本田圭佑、ACミランへ加入し背番号10を背負う。W杯ブラジル大会でもゴール。
- 2018
本田、ロシアW杯でも得点し、日本人初のW杯3大会連続ゴールを達成。
広がりは、本田と香川だけにとどまりなかった。長友佑都はFC東京からイタリアへ渡り、2011年にはセリエAの名門インテルへ。攻守に走り続ける左サイドバックとして、世界最高峰のリーグで主力の座をつかみ取った。岡崎慎司や吉田麻也ら、ポジションも個性も異なる選手たちが、それぞれの居場所を欧州に見つけていく。中田の時代には数えるほどだった海外組は、この世代を境に、ぐっと厚みを増していったのだ。
彼らが海外で得たものは、技術や戦術だけではなかった。言葉も文化も通じない異国で、レギュラーの座を巡って外国人選手と激しく争い、敗れ、また這い上がる。家族や仲間から遠く離れ、結果が出なければ容赦なく構想外にされる――そんな剥き出しの競争社会の中で、選手たちは自分の力を一から問い直すことになった。日本では「うまい」と称えられた選手が、世界では「まだ足りない」と突きつけられる。けれど、その厳しさを肌で知った者だけが、本当の意味で世界基準を身につけていった。挫折を糧に変える力こそが、海外組の最大の武器になっていったのだ。
そして何より、本田や香川の世代がもたらした最大の変化は、海を渡ることを「特別な冒険」から「当たり前の選択肢」へと変えたことだった。中田が一人で開けた扉を、彼らは大勢で通り抜け、後ろの世代のために大きく開け放したまま残していったのだ。
個が世界へ散らばる時代
海外組の存在は、日本代表そのものを変えていった。ヨーロッパで日々もまれた選手たちが代表に集まると、世界の強豪と対戦しても臆さない。むしろ「自分は普段、もっと強い相手とやっている」という自負が、プレーに落ち着きと迫力を与えた。かつて日本代表が世界の大舞台で感じていた「気後れ」は、海外組が増えるにつれて、少しずつ薄れていったのだ。
本田や香川が当たり前にした道の先で、続く者の数は、もはや数えきれないほどに膨れ上がっていく。有望な若手にとって、欧州を目指すことはもはや夢ではなく、キャリアの自然な前提になっていた。
代表のほぼ全員が、欧州で戦う時代
時代はさらに進み、2020年代に入るころには、日本サッカーの風景は中田の時代とは別物になっていた。かつて「海外組」という言葉は、代表の中のごく一部の選手を指す特別な呼び名だった。けれど、いまやその言葉はほとんど意味をなしない。代表に名を連ねる選手の大半が、ヨーロッパのクラブで日常的にプレーしているからである。
その象徴が、若き才能たちの爆発的な広がりだった。スペインで育まれた久保建英は、レアル・ソシエダなどで主軸として戦う存在となったとされ、テクニックと創造性で世界の舞台に居場所を築いていく。イングランドのブライトンで一気に評価を高めた三笘薫は、相手を置き去りにするドリブルで欧州を沸かせた。守備の要として、遠藤航はリバプールという名門の中盤に食い込み、冨安健洋はアーセナルなどで欧州の最前線を経験してきたと報じられている。さらに鎌田大地、南野拓実、堂安律ら、世代を超えた選手たちが、それぞれのリーグで主役を張ろうと日々もがいているのだ。
本田や香川の世代が「欧州でプレーすること」を当たり前にしたとすれば、久保や三笘の世代は、それをさらに進めて「欧州の中心で結果を出すこと」を当たり前にしようとしている。中田が開けた扉、本田・香川が広げた道は、こうして三世代の連なりとして、確かに受け継がれてきたのだ。
この成熟は、代表の結果にもはっきりと表れる。2022年のカタール・ワールドカップ。日本は「死の組」と呼ばれたグループで、過去に世界の頂点を知るドイツとスペインという二つの優勝経験国を相手に、いずれも逆転で撃破してみせた。世界中が目を疑った2つの白星でグループ1位を勝ち取り、ベスト16へ。決勝トーナメントではクロアチアと延長戦までもつれ込み、惜しくもPK戦で涙を呑みましたが、強豪と真っ向から殴り合えるチームへと、日本は確かに変わっていたのだ。
こうして日本サッカーは、ひとつの大きな転換点を越えた。それまで日本の強さは、代表チームという「点」に集約されていた。けれど海外組の時代になると、強さは無数の「線」へと広がっていく。ヨーロッパ各地のクラブで、日本人選手が日常的に世界基準と戦い、その経験を代表に持ち寄る。日本サッカーの土台は、国内の枠を超えて、世界中に張り巡らされていったのだ。
その流れは、もう止まりなかった。中田が一人で開けた扉を、本田や香川の世代が当たり前の景色に変え、久保や三笘の世代がさらに押し広げる。何十人、やがて何百人という選手が続いていく。そして、この「世界へ挑む」という日本サッカーの物語は、男子の代表だけのものではなかった。同じ時代、人知れず地道に力を蓄えていたもうひとつのチームが、やがて世界そのものの頂点に立ち、傷ついた国を丸ごと勇気づける日がやってくる。次回、最終話――なでしこジャパンと、これからの100年の物語である。
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