クロニカ クロニカ
← 日本とブラジル ― サッカーと移民、ふたつの国の物語 の目次へ デカセギ ― 海を逆に渡った人々

デカセギ ― 海を逆に渡った人々

1990年の入管法改正は、人の流れを逆転させた。かつて日本からブラジルへ渡った移民の子孫が、今度は日本へ「デカセギ」に来る。群馬や東海地方の工場で働き、日本各地にブラジル人コミュニティが生まれた。祖父母の祖国で異邦人となった、日系三世たちの物語。

2026年7月4日

日本とブラジルを結ぶ人の流れは、長いあいだ一方向だった。日本からブラジルへ ― それが移民の歴史だった。ところが、二十世紀の終わりに、その流れが逆転する。かつて海を渡った移民の子孫たちが、今度は日本へとやって来るようになったのだ。「デカセギ」と呼ばれるこの現象は、両国の関係に、新しい一章を書き加えた。

  1. 1980年代後半

    日本のバブル景気による人手不足を背景に、日系ブラジル人の来日が増え始める。

  2. 1990年

    改正入管法が施行。日系二世・三世とその家族に就労制限のない「定住者」資格が開かれる。

  3. 1990年代〜

    群馬・愛知・静岡など製造業の盛んな地域に、ブラジル人コミュニティが形成される。

流れが逆転した日

きっかけは、二つの事情の重なりだった。一つは、日本側の事情である。1980年代後半、好景気にわいた日本は、深刻な人手不足に直面していた。とりわけ製造業の現場では、働き手が足りない。もう一つは、ブラジル側の事情だ。当時のブラジルは経済が不安定で、より良い収入を求める人々が、働き口を海外に探していた。

この二つをつないだのが、1990年に施行された改正入管法だった。この法改正によって、日系人の二世・三世とその家族には、就労に制限のない「定住者」という在留資格が認められるようになる。日本で自由に働ける道が開かれたのだ。日本での収入は、ブラジルでの稼ぎを大きく上回った。「数年働いて、まとまったお金を持ち帰ろう」 ― かつて祖父母が抱いたのと同じ夢を胸に、今度は子孫たちが、海を逆向きに渡り始めた。

工場の街のブラジル人

来日した日系ブラジル人の多くは、自動車部品や電機などの工場で働いた。彼らが集まったのは、製造業が盛んな地域である。群馬県や、愛知・静岡を中心とする東海地方には、数多くのブラジル人が暮らすようになり、各地に独特のコミュニティが生まれた。

ブラジル食材を売る店、ポルトガル語の看板、ブラジル料理のレストラン。日本の地方都市の一角に、ブラジルの風景が出現した。かつてサンパウロに「日本人街」が生まれたように、今度は日本に「ブラジル人街」が生まれた。学校にはポルトガル語を母語とする子どもたちが通い、教育の現場では新たな取り組みが求められた。日本社会にとって、これは本格的な「多文化共生」を考える、最初の大きなきっかけの一つともなった。

二つの国のあいだで

しかし、デカセギの道のりも、平坦ではなかった。日系三世ともなれば、ポルトガル語を母語とし、ブラジルで生まれ育った人がほとんどだ。顔立ちは日本人に近くても、文化や習慣はブラジルそのもの。祖父母の祖国であるはずの日本で、彼らはしばしば「外国人」として扱われ、言葉や文化の壁、労働環境の不安定さに直面した。「日本人のようでいて、日本人ではない」「ブラジル人だけれど、日本にルーツがある」 ― 二つの国のあいだで、自分は何者なのかを問う日々でもあった。

それでも、多くの日系ブラジル人が日本に定着し、家庭を築き、地域社会の一員となっていった。短期の出稼ぎのつもりが、長い滞在になった人も少なくない。これもまた、一世紀前の移民の物語と、どこか重なる。日本とブラジルは、こうして双方向に人を行き来させる、世界でもまれな関係を築いてきたのである。

人の往来は、必ず文化の往来をともなう。日系人がブラジルの食卓や農業に残したもの、そしてブラジルが日本の文化にもたらしたもの ― 両国は、互いの暮らしのなかに、相手の色を溶け込ませてきた。物語は、食と文化の交差点へと進む。

この記事は役に立ちましたか?

この物語が面白かったら——

X LINE

参考ソース・元動画